まみ めも

つむじまがりといわれます

怠けものの話(ちくま文学の森)

怠けものの話 (ちくま文学の森)
蝉(堀口大学)/警官と讃美歌(O.ヘンリー)/正直な泥棒(ドストエフスキー)/孔乙己(ヨンイーチー)(魯迅)/ジュール叔父(モーパッサン)/チョーカイさん(モルナール)/ビドウェル氏の私生活(サーバー)/リップ・ヴァン・ウィンクル(W.アーヴィング)/スカブラの話(上野英信)/懶惰の賦(ケッセル)/ものぐさ病(P.モーラン)/不精の代参(桂米朝)/貧乏(幸田露伴)/変装狂(金子光晴)/幇間谷崎潤一郎)/井月(石川淳)/よじょう(山本周五郎)/懶惰の歌留多(太宰治)/ぐうたら戦記(坂口安吾)/大凶の籖(武田麟太郎)/坐っている(富士正晴)/屋根裏の法学士(宇野浩二)/老妓抄(岡本かの子
結婚するという話が降って湧いたように起こり、親に挨拶するためにふたりで帰郷したときの話。父も婚約する相手も核心の話題に触れないまま、ビールを煽るように夕暮れから飲み続けてしまい、夜も十時をまわったころ、ついに、婚約する相手は真っ赤な顔でやおら土下座して結婚の話題に斬りこんだ。父も母も土下座には度肝を抜かれたが、父は「申し訳ないことに、本当になにもできない娘なのですが、こんな娘を嫁にやってもよいのでしょうか」そんなようなことを言った。その日、おもしろがったおじが、わたしの婚約者となろう相手を見物しにやってきたが、そのおじに向かって、おばは「世界一不幸な男の顔を見に行ってどうする」とのたまったという。そのおじはおじで、結婚のお披露目に親戚一同で会食をしたおりに、挨拶で、「まみは、家事は一切できないとおもうので、それは期待してくれるな」と口上を述べた。そんなわけで、わたしの身内からの評価のほどが知れてしまうわけだけれども、つまり、わたしには家事はつとまらないと、そう思われている。しかしそこはわたしを嫁にもらう覚悟の男というのは、さる者で、もとよりわたしには一切家庭的のことを期待していなかった。実際のところはどうかというと、結婚して以来、わたしは一度しか掃除機を使ったことがないし、風呂掃除もしない。茶碗も、たいがい洗ってもらう。洗濯は、一応ふたりともやるけれども、ワイシャツの類はわたしはノータッチで、世界一不幸な男は、皮脂汚れ専用の洗剤を律儀にワイシャツのカラーに塗っていたりする。料理、それだけやる。たいしたものは一向つくらないけれども、世界一の不幸は、コンビニ弁当をふたりで食べる新婚生活を思い描いていたので、味噌汁にトマトキューリを並べた食卓でもオッケー。
そんなわけで、世間一般からするとわたしは怠けものの嫁ということになるんだろう。怠けものの嫁をもらった相手はというと、よく眠る。休みの日など、朝だか昼だか知れないごはんを食べたあとで、食休みにごろりとなって、窓の外の柳を眺めだす、ほら柳がユラユラ揺れてるよと、言い出したそばから眠る。柳を眺めたら寝るんだから柳を見てはいけないよと、注意をすると、今度は空を眺めだす、雲がフワフワ流れるよと、言い出したそばからやっぱり眠る。不幸不幸といわれながら、なかなかしあわせそうに見える。
実のところ、婚約中に、世界一不幸な男と、その友達と、飲みにいったりなどすると、不幸がトイレにたった間に、よく、友達から「いまなら結婚を思いとどまれるよ、アレと結婚していいの」といわれ、妊娠を知らせたときには、「アチャー、もう引き返せないわ」といわれたのだから、似たもの同士の結婚といえるかもしれない。不幸と不幸がかけあわさったら、マイナスとマイナスの掛け算とおんなじで、案外しあわせなのかもしれないと思う次第。
怠けものの話を読むと、おなじ怠けものでも、悲哀あふれる怠けものから明朗な怠けものまで、いろいろある。太宰治「懶惰の歌留多」富士正晴「座っている」は対照的で、おなじ文学者の怠けものでありながら、太宰治はおそろしく陰湿でうしろむきなのに、富士正晴は底抜けに明るくてまえむきなので、おもしろい。わたしも前向き明朗に怠けていこうという気になった。
きのうは七夕。親戚の男の子が短冊に書いた願い事は「お空のプールで泳ぎたい」だったらしい。お空のプールで泳ぐところを想像すると、胸がひらけるような爽快さがあって、ちいさな願い事から大きくおすそ分けされたような気分になる。きっと日本全国津々浦々、短冊にはこんなかわいらしい詩がたくさんつづられたんだろうと思う。