まみ めも

つむじまがりといわれます

夜は短し歩けよ乙女

夜は短し歩けよ乙女
隣の庭先で黄色い花がやたらに咲いていると思っていたら、庭先に出ていたおじいさんが、食用の菊だから食べてみるかという。鋏でちょんちょんと切ってひと抱えほど束にしてくれたのを、新聞紙のうえにひろげて、息子を膝にかかえて花びらを毟っていたら、息子も真似て花びらをぶちぶちやった。菊のにおいがぷんとする。ボウルいっぱいに黄色で埋まったのを、鍋に沸かした湯に酢をたらりと垂らして湯がいたあとで水にはなっておく。一時間ほど水においたあとで、ぎゅっと絞ったら握りこぶしくらいの大きさになった。酢醤油をかけて食べたら、キュキュっとした歯ごたえに思いのほか苦味も灰汁もなく、すっきりとした味わいだった。ほんの取るに足りないささやかな出来事だけれど、菊のにおい、鮮やかなイエロー、生活をぱっと明るくして、平凡な毎日の堆積が輝き出す。わたしはなにも特別なことの起こらないような日常が好きなのだとおもう。つまらない女だと我ながらおもうけれども、そのつまらない自分も嫌いでない。つまらない人生だなあとおもいながらわたしには出来すぎた人生だとも思っている。
日曜日はこまこまと買物にでかけた。腹をすっぽりするパンツ、ウールのくつした、フリースの上着を買って冬支度。息子にもボアの耳当てがついた帽子を買った。三人でうどんを啜ってから眼鏡を買いにいく。ちいさなものもらいがポッチリとできて、コンタクトレンズは使わないほうがよろしいというお医者の言いつけに従い、ついでに眼鏡を作り直すことにした。眼鏡ででかけたものだから、試着したところでちっとも鏡が見えないのでおかしい。筈氏のすすめるまま赤と黒のフレームを選んで買った。赤の眼鏡が先にできあがって、かけてみたら少し世界がはっきりして現実味を増した。わたしと現実との境目、赤いフレームが視界の隅でときどきキラリとする。
森見氏の作品は太陽の塔だけを読んで、愉快だったことは覚えているがこまかい内容は忘れてしまった。ブックオフで単行本をみつけて¥105にて購入。通勤のからし色の鞄につっこんで、会社の机の引き出しにしまい、昼休みにもくもくと読み耽る。大団円がやってくるという予感はあったが、その大団円に至るところで天狗が宙を舞うようなファンタジーが展開され、お酒と風邪薬をちゃんぽんにしたようなふわふわした気持ちが心地よく、ほくほくして本を閉じた。森見登美彦は、もてない男ばかりを書いているけれども、農学部のくせに文章が感性的なので、本人はよほどもてるんだろうなと思う。本当にもてない男というのは、もっとどうしようもなく救いようのないもんだ。市中の公園でウシガエルを拾って庭に穴を掘って飼ったり、じぶんの精子を見るために顕微鏡を買ったりするような生々しい例をわたしは知っている。