まみ めも

つむじまがりといわれます

これも男の生きる道

金曜日の夜明けにふと触れたセイちゃんがあつあつになっていて、朝、検温するとはたして熱があった。保育園をやすんでクリニックに連れていくがどんどんと機嫌をわるくし、病院から帰ると奈良美智の絵のこどもの目をしてぐったりした。保冷剤をくるんだ手ぬぐいを身体にあてがったり、スポイトでポカリスエットを口にいれてやったり、フクちゃんもぐずるので常にどちらかを抱いて片方をなだめなければならず果たしてどうなるかとおもったが、翌朝には平熱に戻ってくれたのでよかった。げんきになったらなにがたべたい?ときくと、ドーナツと答える。一日お熱がなかったらあしたドーナツ買ってたべようね、というと、寝る間際まで両手でまるをつくって、まるい大きいの、とドーナツの話をしていた。途中からねむけでわけをわからなくし、しかくい、スペンサー、ときかんしゃトーマスの話になり、そのうち寝てしまった。翌朝、ミスタードーナツに連れていってショーケースに並んだなかから選ばせるとクリームがはさまってチョコレートもかかったやつを指差す。きっとラーメン屋でも全部のせするタイプだ。貪欲でいいじゃないの。顔と手をべたべたにしていっしんに食べていた。

これも男の生きる道 (ちくま文庫)

これも男の生きる道 (ちくま文庫)

桃尻娘がキョーレツだったので、橋本治を買ってみたが、いまいちぴんと来なかった。たとえば小説のなかでが、「ホント、女ってやなんだよなあ」と一般化しているのはおもしろいし全然気にならないのに、橋本治が一人称で女というのは、男とは、というと一挙にしらけてしまう。自立をテーマに、要は無能感を受け入れてやってくしかないという話。橋本治は小学校で逆上がりができなかったクチで、逆上がりを題材に、無能感に打ちひしがれて「できない自分」をただしく受け止めることで不可能は可能になったというのだが、そんな個人的なことをもとに一般化されてもなあ、と、逆上がりのできないままにおわったわたしは考えるのだった。
わたしは今も逆上がりができないが、一度だけできたことがある。小学校当時の体育教師が熱血漢だったものだから、逆上がりのできないこどもたちは体育館で居残り練習をやっていた。一応は自主練だが、やらないとなるとちょっと冷たい眼をされるのでなかば強制みたいもんで、わたしもやらざるを得ない気がして放課後は練習にでた。跳び箱の踏み台を鉄棒のしたにおいたりして、手にまめをつくって。そしてわたしはあるとき奇跡的に逆上がりが成功してしまった。つぎの体育の授業で、きょうは報告があります、とその先生が言ったときに悪い予感がよぎったが、もちろん的中、マミは一生懸命練習をしたので逆上がりができました、拍手!といったものだから、クラス中の視線をあつめて、まったくいたたまれないという言葉があんなにぴったりくる状況もない。でもってわたしの逆上がりはまぐれだったので、そのあと皆のまえでやっぱり逆上がりができなくて無様なおもいをするのだった。その絶望的なシチュエーションに皆々様の疑うところを知らないまっしろの善意がおもたすぎて、なんといおうか、理不尽が果てしなかった。