まみ めも

つむじまがりといわれます

フランシス子へ

夏休みにドロリッチを飲んだらはまってしまい、このところコーヒーゼリーばっかり食べている。ジャムの空き瓶にコーヒーゼリーをすくっていれて、牛乳をかけて、ふたをキュッとしめて会社に持っていく。小豆をのせたりのせなかったり、練乳をかけてみたりする。お昼のあとのデザートにコーヒーゼリーをつるんと食べる。甘さの奥に苦さがひそんでいて、切ないような気分がするところがいい。好きになると同じものばかり食べてしまう。たぶん、もうこの夏はコーヒーゼリーを2キロくらい食べたと思う。そのせいなのか、夏休みにプラスになった2キロの体重が居座ったままどこにもいかない。

フランシス子へ (講談社文庫)

フランシス子へ (講談社文庫)

ト本。

とりたてて何もない猫、しかし相思相愛の仲だった。忘れがたき最愛の猫フランシス子の死。人は悲しみをどう受け止め乗り越えるか。吉本隆明が自らの老いに重ね合わせ考察する。 

吉本隆明が「僕」の一人称で猫さんのことを語る本。カフカの「父の気がかり」という短編で、オドラデクに対する「たまらない」気持ちというのが出てくるのだけれど、その「たまらなさ」のような愛が詰まっていて、こんなに丁寧な思いが綴られた本ってあるのだなあと思った。フランシス子は、特別なところのない猫だけれども、吉本隆明にとってはたったひとつの存在で、いなくなりかたになんともいえない独特の感じがあって、武田泰淳とその佇まいが似ていたらしい。忘れがたい存在だったフランシス子が死んでしまい、その忘れがたさを抱えたまま吉本隆明が死んで、こうやって文字の上に書き留められた思いが、読む人の胸に去来するというのは、本当にたまらない。猫を撫でているときのような陽だまりの感じをもらう本だった。