まみ めも

つむじまがりといわれます

日々の泡


読み残していた30ページほどを、ちびちびと読んだ。ためいきが漏れてしまう。晴ちゃんが生まれたとき、この本を読んでいたことをきっと毎年の誕生日に思い出すんだろう。ひょっとしたら、これから毎年五月に読み返すのかもしれない。晴ちゃんの誕生と、胸に睡蓮の咲くクロエのさわやかな死と、一見するとまったくの対極のようだけれど、生と死とは連続したものであるし、現実と虚構だってどこかで紙一重でつながっている。なはんて、センチメンタル。
訳者曾根元吉のあとがきが、あんまり的を得ていてうなった。

この物語の書きだしの数行こそいかにもまっとうな小説らしい筆づかい(それもヴィアンごのみの一種の偽装?)だが、ページを追うにつれて現代小説の伝統ふうと革新ふうのいずれの型でもないまったく別な気質の文学であることに気づくだろう。(中略)『日々の泡』が細部のすみずみの大小無数の≪半現実≫の地雷を仕掛けた現代青年の童話であることを悟るはずである。それからは≪ふしぎの国≫に入りこんだアリスのように用心ぶかく、足もとでなく眼下に注意しながら、読みすすむことになろう。

はじめはアレレという感じで戸惑いながら虚構の世界のやんわりとした抵抗に分け入っていくと、ぐにゃぐにゃと変形した世界の中で、本当のかなしみに出会ってしまう。「あくまで変装しつづければそれはもはや変装したことにならず」とあとがきにあるように、まさしく道化のメーキャップが流すなみだ、いびつな虚構にかたどられて、そのかなしみはいよいよかなしく、その切なさはいよいよ切ない。