まみ めも

つむじまがりといわれます

変身ものがたり(ちくま文学の森)

変身ものがたり (ちくま文学の森)
死なない蛸(萩原朔太郎)/風博士(坂口安吾)/オノレ・シュブラックの失踪(アポリネール)/壁抜け男(エーメ)/鼻(ゴーゴリ)/のっぺらぼう(子母沢寛)/夢応の鯉魚(上田秋成)/魚服記(太宰治)/こうのとりになったカリフ(ハウフ)/妖精族のむすめ(ダンセイニ)/山月記中島敦)/高野聖泉鏡花)/死霊の恋(ゴーチエ)/マルセイユまぼろしコクトー)/秘密(谷崎潤一郎)/人間椅子江戸川乱歩)/化粧(川端康成)/お化けの世界(坪田譲治)/猫町萩原朔太郎)/夢十夜夏目漱石)/東京日記 抄(内田百輭
この本を読んでいるさなかに、わたしは、ニンプからおかあさんになった。よく、女は妊娠した時点で一挙に母親になり、いっぽう、男はあかちゃんが生まれてから少しずつ父親になるというような、母性崇拝めいた話があるけれども、わたしはというと、妊娠した時点ではちっとも母親ではなかったとおもう。コーヒーもお酒も我慢したけれど、それは母性とはちょっと違うと思う。義務感に近かった。わたしは案外まじめなので、そういう制約はスンナリ守ることができてしまう。それで、5月3日の朝、おしるしがあったときに、わたしはブッチャケびびってしまった。去年の9月から、あかちゃんが生まれるということはとうに分かっていたことなのに、いよいよあかちゃんがおなかから出てきて、自分が母親になるのだと陣痛という実感を伴ったときに本当に分かってしまって、焦っちゃった。出産にいたる過程はわれながら落ち着いていて、出産間際の自分のおなかをカメラに収めたり、約束のあった友達にことわりのメールをしたり、出産だって苦しんだけれど想像ほどに取り乱すことはなく、たとえば、わたしがいきんでいる間に、となりの陣痛室にいた経産婦のおかあさんが分娩室に急遽はいってきて、悲鳴をあげながらあかちゃんを産んで風のように去っていったけれど、その隣での出産劇・あかちゃんのうぶ声に感激して「ああ、ヨカッタ」とコメントする余裕だってあった。そういう冷静さの裏側で、実は、わたしはちゃんとおかあさんになれるのかなという不安があった。出産を終えてはじめて見たわたしのあかちゃんは、しわしわとして、いきんだときに子宮の出口でひっかかったと思われる凹みがおでこにあって、なんというか、わたしにとって未知の生命体だった。ずっとわたしの中にいたけれど、未知だった。どきどきした。そのあかちゃんが、まだオッパイの出ない乳首をちうちうと吸う姿をいじらしく思う一方でちょっとした違和感も感じていた。わたしが、おかあさんになっちゃった。妊娠中は、重たいものをほとんど持たなかったので、退院するときに3キログラムのあかちゃんを抱く腕が重たくて、絶対に落としてはいけないという責任感、それが、わたしがこのあかちゃんのおかあさんなんだという責任感をよびおこして、ちょっぴり泣きたいような気分だった。ひと月以上たったいまも、自分がちゃんとおかあさんになったんだかどうだか、チョットよくわからない。あんまり泣くので、途方ない気分になることもあるけれど、あかちゃんを抱いて廊下の姿見の前に立つと、あかちゃんはわたしの身体に対してあんまりちいさい。その相対的なちいささを確かめるのが、わたしの日課になっている。このちいさな生き物のおかあさんに、ならなくちゃなとおもう。なれるかな。わたしの「変身ものがたり」はエンドレス。