まみ めも

つむじまがりといわれます

夜の公園

夜の公園
佐藤浩市がサラリーマンを演じていた車のコマーシャルで、「私の中に、俺が帰ってくる」というコピーがあったのを、やたらと気に入っていて、これはと思ったときについつい使ってしまい、筈氏にしょっぱい顔をされる。このコピー、一人称の持つイメージをがっちり捉えているところがたまらない。そんなわたしは、一人称に「わたし」を使う。女性が使う一人称は、私わたしワタシあたしアタシなんかが一般的かと思うが、わたしには「あたし」「アタシ」はおんなっぽくて恥ずかしい。あたしという一人称は、たとえば、痴人の愛のナオミだったり、三十路のaikoだったり、「あたしである自分」というのに無自覚な人こそに許されることばだと思う。わたしなんかがあたしという一人称を使うと、ものすごく意識して使わざるを得ないので、おんなっぽさがフェロモン香水のように不自然ににおってしまう。わたしは、自分の輪郭を、性別を含めいろいろなところを一切合財曖昧にぼやかしたいので、「わたし」を使う。ベージュの下着を身につける感覚というのか。まあ、こういうことを言っている時点で、自意識過剰にならないように過剰に意識してしまっているので、ベージュの下着といえどもヌーブラのようなちょっとイビツな「わたし」なのかもしれない。そんなわたしは、「あたし」が似合う人を見ると、白いTシャツからさわやかに透けて見えるレースのブラジャーみたいで、眩しいなあと思ってしまう。
「夜の公園」はわたし私あたし僕の各一人称が語る恋愛模様で、読みながら、この類の恋愛小説は苦手だなあと思い出す。この小説は、どろどろしているけれど、わたしからすると「みっともなさ」が足りない。わたしは、みっともなくて情けない恋愛ばかりしてきたので、この小説のみっともなくない具合がどうも腑に落ちない。それにしても、わたし史上最高にみっともない汗と涙と鼻水でべとべとの恋愛が、ひょんなことから満願成就したのだから、人生ってわからなすぎる。