まみ めも

つむじまがりといわれます

賭けと人生(ちくま文学の森)

賭けと人生 (ちくま文学の森)
全生涯(リンゲルナッツ)/賭博者(モルナール)/ナイフ(カターエフ)/その名も高きキャラヴェラス郡の跳び蛙(マーク・トウェイン)/富久(桂文楽)/紋三郎の秀(子母沢寛)/かけ(チェーホフ)/混成賭博クラブでのめぐり会い(アポリネール)/アフリカでの私(ボンテンペルリ)/黒い手帳(久生十蘭)/スペードの女王プーシキン)/木馬を駆る少年(D.H.ロレンス)/5万ドル(ヘミングウェイ)/塩百姓(獅子文六)/闘鶏(今東光)/死人に口なし(シュニッツラー)/もう一度(ゴールズワージー)/哲人パーカー・アダスン(ビアス)/最後の一句森鴎外)/喪神(五味康祐)/入れ札(菊池寛
パラレルワールドなんてことを考え出すと、メビウスの輪を延々眺めて心がざわざわするような、ちょっと時空の穴に落っこちたようなそらおそろしい気持ちになってしまうので、あんまり考えないようにと思うのだけれど、現実というのは賭けの連続のようなもので、わたしが今こうしてことばを選びながらキーボードを叩く、こういう何気ない行為をすることで、行為をする自分というのを無意識に選びとっているわけで、行為をしなかった自分、あるいはほかの行為をする自分というのが消滅して(というかあっちの世界にいってしまって)、いま・ここにあるわたしというのは、時間軸に伴ってだんだんに限定されていくような、その反対側で、自分としては人生のあたらしい時間へと向かっているわけで、自分自身の世界はだんだんに広がっていくような、こんがらがった気持ちになる。
賭けというと、いままでに一度だけ、パチンコ店に入ってスロットというのをしたことがある。それというのは、わたしとは対照的に大それた人生を歩んでいた友人というのがいて、その友人がいきなりパチンコをしたいと言い出し、わたしはパチンコなんかしたくないと言ったところを、千円札を三枚握らされて、これをやるからやってみろと、そういういきさつだった。パチンコ店のうるさい音、あんなの大嫌いだけれども、その音を押し分けるように入っていって、台の前に座って、隣の友人をまねてスロットというものをやってみた。ロッキーのスロットで、あたるとロッキーのテーマが高々と流れ出す。わたしの千円札は三枚するすると吸い込まれるようになくなって、ロッキーのテーマが流れることはなかったけれども、賭け事なんかと思う気持ちとうらはらに、友人が流したロッキーのテーマに若干高揚した気持ちを味わい、たった三千円だけれども、消えるために使ったというのか、あぶく銭ということをはじめて味わって爽快な気分もまじった。その友人は、大学院を休学して北海道の牧場に住み込みで働きにいき、平日は汗を流して仕事、週末はパチンコで給料を使い果たすという生活をしばらくしたあとで復学、卒業したあとは国家公務員になったと思いきやほどなく退職して、いまはどこかで研究員をしているだろう。国家公務員をやめたときに、わけを尋ねたら、やっぱりノーベル賞をとりたいからと臆面もなく言ったっけ。そのあとネイチャーに論文を載せていたので、おおかた本気なんだろう。一度、付き合おうかというようなことを言われ、とんでもない考えたこともないと断ったら、「いい歳して誰にも相手されないでかわいそうだから言っただけだ」なんて、言われてしまい、いい年して誰にも相手にされてないのはそっちだろう、と、のど元まであがってきたけれど、致命傷を負わすのはかわいそうだと思い、いわなかった。まったく、不器用な人だと思う。
「賭けと人生」には、久生十蘭「黒い手帳」が収録されていたのを、やっぱり狂気じみた展開に引き込まれ、一気に読みたいけれど終わってしまうのが勿体なくて、いきつ戻りつしながら読み終えた。圧倒的におもしろい。