ハルキムラカミはこれまでふたつ読んだことがあって、世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド、海辺のカフカ。たしか、世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランドと前後して小川洋子を、それも初めて、読んだのだったが、それが、わたしにとってはものすごく似すぎてしまっているふたつの物語で、一気に興味がうせてしまい、それから読まない。気分としては、好きでもないマシュマロを立て続けに食べさせられたような具合で、わたしの中にある村上春樹および小川洋子に対するキャパシチーはその時点で飽和しちゃった。あえてマシュマロを選択する理由というのが、もうなくなった。1Q84だって毛頭読むつもりはなかったところ、件の義父が差し出してきたので読むことになった。義父から差し出されたものは、問答無用でとりあえずは受け入れることになっている。
村上春樹がおもしろくないわけではなくて、おもしろい。おもしろい一方で、村上春樹ナンカおもしろいとおもっちゃうなんて、という気持ちが裏側にあって、素直にのめりこめない。村上春樹だってわたしナンカに村上春樹ナンカと思われたくないだろうけれど、どうしてもその気持ちが払拭できない。会話にはさまれるウィットであったり、比喩であったり、ジバンシイやアニエスベーが登場したり、そういうものがいちいちわたしのお尻の穴をむずむずさせてしまう。おもはゆいというのがぴったりする感じ。わたしの尊大なる自意識が、村上春樹をたのしんでいる自分を、うえから冷静に眺めている。アーア、屈折しちゃってるなあ。たとえばわたしが中学生のときに、村上春樹を読んで、そうしたらきっとものすごく面白かったにちがいない、その一冊の経験があったなら、いまだって村上春樹をたのしめたと思うけれども、わたしがはじめて村上春樹を読んだときには平均寿命の四分の一を終えたぐらいのころだったものだから、もう村上春樹を好きだなんて言い出せないようになってしまっていた。
そうはいいながら、1Q84ワールドにはがっちり捉えられていて、リトル・ピープルが口から出てくるあたりでびびってしまい、こどもを寝かしつけたベッドの隣、枕を背中にあてて読んでいたその斜め前に姿見があるのを、姿見の中になにかちらちら動くような気配を察してしまい、そっちを見たら確実になにか見えてしまうという観念がとりついて、見てはいけない見てはいけないという思いがいよいよ意識をそちらに縛り付けるので、ほとほと参った。