まみ めも

つむじまがりといわれます

ヴァージンスーサイズ

ヴァージン・スーサイズ [DVD]

1970年代のミシガン州が舞台。リスボン家にはテレーズ、メアリー、ボニー、ラックス、セシリアという美しい5人姉妹がおり、近隣の少年たちの憧れの的であった。しかしある日、末っ子のセシリアが手首を切ってしまう。手首を切った理由を聞かれ「死にたかったわけではない。自分を消したかった。」と話すセシリア。一命をとりとめたセシリアだったが、家に戻ってから数日もしないうちに、2階から身を投げて外の柵に刺さり、死んでしまう。

十年もまえになるのかと驚いたが、この映画が公開された当時、大学のクラスメイトと渋谷の映画館でみた。男ふたりと見たのだけれども、その片方が、女子が好みそうな映画だねといったとおり、ハタチそこそこのわたしはこの映画のイキフンにすっかりのまれてしまい、サントラCDというのを、はじめて買った。十年たって、みてみたら、わたしはもう中年で女子とはいえないということなんだろうか、もうあのころみたいにギュンギュンこなかった。とはいえ、チューネンノットイコール女子というわけでもないらしく、ちまたには「大人女子」なんていう得体のしれない単語もあるらしい。ジョンカビラが金曜朝のラジオで雑誌の見出しを読み上げるコーナーがあるけれども、ほんとうに得体のしれないフレーズのオンパレードでわらってしまう。こないだは美魔女がどーのこーのと言っていたが、出版業界は読者をおちょくっているのか、はたまた本気なのか、どっちにしてもいかんともしがたい。でもって、アホくさと思いながらもこれら単語はわたしの脳内にこうやってこびりついてしまうんだから、ますますいかんともしがたいわけで。いずれにせよわたしはもう女子ではないのだと気づくに至った。
ハタチのわたしは、この映画に描かれる思春期女子特有の熱狂と倦怠にあこがれを抱いたんだろうなあと、おもう。彼氏の名前を下着にしるしてみたり、ロックのレコードを泣きながら暖炉にくべたり、そうかと思うとあっさり人生に絶望して死んでしまえる。生きることにあんまり執着してないのが、なんかうつくしいように思ったんだろうな。わたしはといえば、なにかに熱狂することもなく、人生を悲観するでもなく、淡々と生活しておったわけで、そういう宙ぶらりんなじぶんを一方ではもの足りなく感じていたんだろう。いまだって自分自身をもの足りなく感じているけれど、その欠乏具合がじぶんのアイデンティティのように、自虐的ではあるけれど肯定的に受け入れられるようになった。足りない空白を自負にするなんて、なんだか我ながらおかしい。実体のない自負というのは、でも、わたしらしい気もする。

私は「私の鼻は大きくて魅力的でしよ」などと頑張つてゐる女の子より、美の規格を外れた鼻に絶望して、人生を呪つてゐる女の子のはうを愛します。それが「生きてゐる」といふことだからです。(三島由紀夫