まみ めも

つむじまがりといわれます

異邦人

異邦人 (新潮文庫)
きょう、ママンが死んだ。という一文は、かなり有名な出だしだと思うのだけれど、この一文を有名ならしめたのは、やっぱりママンというすこし耳慣れない単語のなすところが大きいだろうな。ちいさいころ、うちの隣の子が、父母をママパパ呼ばわりしていたのもカルチュアショックだったが、筈はいっときまで父母をマミーダディ呼ばわりしとったそうだから、日本でも母親をママンて呼ぶひとは、おるんやろうな。
筈の本棚より二冊めはアルベール・カミュ老人と海に続いて異邦人で、なんだか読書感想文でも書かされそうなセレクトだ。筈はこの小説がいっとう好きらしく、読んでいたら成る程と思うふしがある。主人公のムルソーは、じぶんの感情にも他人の感情にも無頓着なので、そのくせどこかしらくそまじめで、たとえば情婦に愛しているかときかれたら、それに意味があるとは思えないが、たぶん愛していない、とこたえる。取り繕うということをしない。だから、太陽のせい、なんて言って、衆人の失笑を買ってしまう。こんなような記憶はわたしにもあるので、かつて、筈に交際をねがいでたところ、唐突に、ぼくには結婚するつもりはないがよいかと尋ねてきた、わたしは、結婚してくれと頼んでいるつもりはないとこたえたが、女子が24、25歳の身空で結婚をかんがえないのはおかしいのではないかと問いただされ、なんとなくそれがムラムラと腹に据えかねて関係がおじゃんになったことがあった。いま思うとかれに悪気はなかったことはしれるけれども、悪気がなくてもひとというのは傷つけられるので、わたしはそのとき傷ついた。今となってはどうでもいいが、どうでもいいと言いながら何度もこのエピソードを反芻して筈にいやな顔をされているわけだけれども。
異邦人を、わたしは自分にも起こりうる物語として読む。ムルソーには明らかな不運があるが、かれのひねくれた性格のせいで、かれを裁く大衆は盲目になってしまう。そして大衆はみずからの正義を疑わない。そこがおそろしい。