まみ めも

つむじまがりといわれます

カフカ短編集

カフカ短篇集 (岩波文庫)
それにしても日が短くなった。息子を迎えにいった帰り道の遊歩道では、空の下側でほんのり光っている橙色が歩いているうちに地平に吸われて空がキーンと冴えかえり、胸がきゅーんとなる。きゅーんとなると、なんだかわからないがチョコレートを食べたくなって、家に帰ったらまずベランダでつめたくなった洗濯物をとりこんで、したら、チョコレートを齧りながら夕飯の支度をする。息子は腹を空かせているので、好物の人参グラッセやレーズンや海苔をすこしずつ与えておいて、台所の抽斗からボウルや笊をだしてやるとそれでしばらくがしゃがしゃやって遊んでいる。その隙に怒涛のいきおいで野菜を切り刻み、豚汁やカレーをぐつぐつやる間に息子に夕飯をたべさせたりする。この生活もわるくないと思っている。わたしはほどほどではたらき、ほどほどで家のことをやるのが性に合うんだろう。ほどほどといいながら、茶碗のかたづけも洗濯も風呂掃除もやらないが。
カフカは前に変身ぐらいは読んでいたが、ちくま文学の森で、雑種、父の気がかり、流刑地にてを読んで、あんまりおもしろく、しかもおそろしく、得体のしれない具合にちびりそうでいいなあと思っていたが、筈氏の本棚に岩波の短編集があって、いつ読もうとうずうずしとったのを、やっとひっぱり出した。会社の昼休みにPCの前でほくほくしながら読む。雑種も父の気がかりも流刑地もはいっていて、やっぱり得体がしれなくてちびりそうになる。まったくもってわけがわからず翻弄されるのが、ちょっと心地いい。おとなのための寓話。意味はあるかもしれないし、究極のナンセンスかもしれない。底なしの穴をのぞいているような気分になる。父の気がかりはたった三頁くらいの短編だが何度読んでもいい。次になにかしら名前をつけるものがあったら是非オドラデクとつけたいが、さすがにおなかの子につけるわけにはいかないなあ。でも、おなかの中で好き勝手にうごうごとしてよくわからないくせに確実にわたしの血をひいているこの生き物のことを考えるとたまらない気持ちになるので、オドラデクと呼ぶにふさわしいかもしれない。