まみ めも

つむじまがりといわれます

日はまた昇る

日はまた昇る (新潮文庫)
三連休は毎日友人に会う予定がありふらふらとあちこち出かけた。たのしいにはたのしいが、元来が根暗で内向的、哀しいかな人間が社交的にできていないものだからなんだか草臥れちゃった。先の週末は雨が降ったのもあり土曜日は家から一歩も出ずにスコーンを焼いたり昼寝たり本を読んだり、日曜日は近所の大型スーパーと公園に散歩にでてシャボン玉をフワフワとばして噴水ショーをながめて帰ってきた。夜は息子が寝たあとで日曜洋画劇場ダイ・ハード2を追いかけ再生して見たらやたらおもしろくて爆笑してしまった。暫くはスチュアート大佐モードでリモコンを操作してしまいそう。
ヘミングウェイは、ちくま文学の森にはいっていた釣りの話が気にいって、老人と海を読んで、したが、今回はちょっとおもむきが違って、青春群像劇といったらいいのか、主人公は戦争で「背負わされた」ジェイクという若者で、惚れた女がいるけれども、その女はやたらいい女していて、つぎからつぎと男を渡り歩き、ジェイクの気持ちを知りながらそのくせ困ったときにはジェイクに頼ってくるという遣る瀬無い有様、そんな繰り返しの日々をヴァカンスにのっけてみたのが日はまた昇るという作品で、だから、日はまた昇るというのは、希望的な意味ではなく、延々繰り返す実りのない愛の日々をさすので、読んでいて、つらーく、なってしまった。

こういうものなのだ。女を、ある男といっしょに旅に行かせる。女にまた別の男を紹介し、そいつと駆落ちさせる。今度は、こっちが出かけていって女をつれもどす。電報には「愛をこめて」などと書く。こういうものなんだ。

夏目漱石の門だっけ、あれでも主人公が、爪を切りながら、春が来るよという話に、でもまた冬が来るよと返す場面があったが、それを思い出した。連綿と繰り返す毎日、あたらしい一日、あたらしい季節が残酷なことだってあるんだよなあ。こういうものなんだ、ということばから滲み出る諦めと軽い絶望感。ひとをこころから愛するなんて、報われないことがあきらかなケースにおいてはすんげーつらいもんなんだよなあ。わたしもかつてそんなことがあったけど、じぶんの存在がおそろしいほど軽んじられてしまって非常にきつかった。もう二度とごめんだね。と、思いながら、ときどき当時のおもいを脳内再生して気持ちがむらむらとし、筈氏に恨み・つらみをぶちまけるのであった。