まみ めも

つむじまがりといわれます

フィツジェラルド短編集

フィツジェラルド短編集 (新潮文庫)
氷の宮殿/冬の夢/金持の御曹子/乗継ぎのための三時間/泳ぐ人たち/バビロン再訪
こないだ散歩に携帯する一冊をえらぶのに、ポケットにいれるので文庫本をとなんとなくフィツジェラルド(新潮文庫的にはフィッツジェラルドではないらしい)をつっこんだ。あんまり翻訳ものはやらないのでフィツジェラルドというひとを知らないまま川っぷちのベンチで頁を繰ってみたけれども、眼前にひろがる畑やたんぼの薄ぼんやりした淡い景色と作品世界とのギャップなのか、文字のうえを視線がすべって終いまで部外者のままだった。臨月のせいもあるのかもしれない、あぶくのような恋愛沙汰が、読んでいるそばから過去のものになって、話の結末を知る前にぜんぶ取り返しのつかないうしなわれたものという感じをさせて、むなしさに捕まってしまった。「冬の夢」にでてくる一節が象徴的。

彼はきらめく物やきらめく人間との接触がほしかったのではない―きらめく物そのものがほしかったのである。

きらめく物そのもの!きらめきというのは、そもそもうしなわれることを前提とした刹那的なものなので、きらめいている「いま」きらめきを手に入れたところであとあとには光をうしなってしまう。フィツジェラルドのここにはいっている話はほとんどがきらめきを逃す話になっていて、さらに現実はあのとき逃したきらめきが、もはやきらめきでもなくなったことを残酷につきつける。人生の後半は喪失の過程だというようなことばもあったっけ。フィツジェラルドの描写自体もきらめきを放っていて、夏の陽光に翻る葉裏のようなチラチラした印象をのこして、文章なんだからうしなわれるということはないんだろうが、このまぶしい喪失の感じこそがフィツジェラルドの魅力なんだろう。きっと、夏の盛りに汗のかいたグラスにストローでレモネードなど飲んで「ひと夏」感を演出しながら読んだらしっくりする。