日曜の夜にお腹をくだしてから、なんとなしに体調がすぐれないでいる。頭は頭痛を起こしそうな予感に満ちているし、食べられんこともないが胃がもやつくし、おぞおぞと足先に寒気の気配、風呂上りにめまい。どれもこれといってはっきりした症状もないので、コーヒーに浮かんだミルクが薄っすらと膜を張ったような、そんなさりげなさでわたしの生活を脅かす(読んだ本に立て続けにコーヒーに膜を張るミルクというのが出てきて、この表現を使ってみたかった)。そんなわけで、おとなしく家にひきこもり、午前は夕飯のしたく、午後はベッドでフクちゃんを寝かしつけたとなりで蒲団に肩まで潜り込んで本をひらくが、頭もストッキングでも被ったみたいにすっきりしないので、おなじところを何遍も行ったり来たりした挙句に気がつくと寝てしまい、ちっともはかどらない。この生乾きの洗濯物みたいに冴えない気分を、どーしたらいいもんか。
- 作者: 島田雅彦
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2005/06/29
- メディア: 単行本
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「堪ヘ難キヲ堪ヘ…」
「あ、そう」
「とてもご誠実で…」
「コウノトリにもあわせて感謝…」
「強制になるということではないことが…」
という有名なおことばたちが挙げられ、そのシュールさに思わず手に取る。戦後の皇室のおもだったことばとその背景がまとめられている一冊。読んでいくうちに、「象徴」というのがいよいよわからなくなり、ファンタジーとリアルの狭間を揺らぎだした。そして、ファンタジーのほうにがくんと倒れそうになる。
なかでも美智子皇后のIBBY基調講演におけるおことばが物凄く、引用は一部だったが、全体を読んだらその知性と品性、みずみずしい感性の洪水におののいた。
まだ小さな子供であったときに、一匹のでんでん虫の話を聞かせてもらったことがありました。不確かな記憶ですので、今、恐らくはそのお話の元はこれではないかと思われる、新美南吉の「でんでんむしのかなしみ」にそってお話いたします。そのでんでん虫は、ある日突然、自分の背中の殻に、悲しみが一杯つまっていることに気付き、友達を訪ね、もう生きていけないのではないか、と自分の背中に背負っている不幸を話します。友達のでんでん虫は、それはあなただけではない、私の背中の殻にも、悲しみは一杯つまっている、と答えます。小さなでんでん虫は、別の友達、又別の友達と訪ねて行き、同じことを話すのですが、どの友達からも帰ってくる答は同じでした。そして、でんでん虫はやっと、悲しみは誰でも持っているのだ、ということに気付きます。自分だけではないのだ。私は、私の悲しみをこらえていかなければならない。この話は、このでんでん虫が、もうなげくのをやめたところで終わっています。
私は、私の悲しみをこらえていかなければならない。ぐさっとくる。わたしはわたしで、ストッキングを被った頭で、この生乾きの肉体を生きていかなければならん。