まみ めも

つむじまがりといわれます

覚えていない

帰り道の小学生がうしろを歩いてくる。女の子。おとうさんの仕事の話。片方は、うちのおとうさんはパソコンの先生やってる、けっこう詳しいよ、先生ってほどのものでもないかもしれないけど、となかなか自慢げだ。小学生にとっては先生というのはものすごく権威のあることなんだろう。もう一人の女の子、うちのおとうさんはフツーに、会社、いってるだけ、と、なんとなく自信なさげにいう。振り向いて、大丈夫、フツーに会社にいって一生懸命働いてるあんたのおとうさん、すんごく立派だよと、応援してあげたくなるんであったが、振り向かずに背中からオーラを発してみる。や、背中で語るってむつかしー。高倉健さんあたりに弟子入りしないと。あの娘のおとうさんの疲れに「お」をつけて、「さま」までつけて、リポDもつけて、持ってけ泥棒。

覚えていない

覚えていない

図書館でみつけたサノヨーコのエッセイ。ところどころ知った話もあるような気がしたが、「覚えていない」んだからどっちみちおもしろい。

私はフロイトユングもその他心理学というものは大嫌いだ。母なるものなんて、本当はありはしないのだ。母はいるが、ほとんどの女は母になるが、それは母であって、「母なるもの」ではない。

歯の無い顔でケロケロ笑っていたあのやわらかくてすべっこい、桃の産毛のような金色のこまかい毛を光らせていたちんこい生き物、あー、お前が笑ったら一瞬世界は花畑になったようだった。かわいいのは我が子だけであるということを私は知っている。あらゆる母親が我が子だけをじっと見ているのである。

どの女も胸ひろげて自分のおっぱい赤ん坊の口につっこんでうっとりじんじんいい気持だった時が、黄金時代である。

母親になってみるとこういうのが断然わかってしまう。花畑。うっとりじんじんいい気持ち。この陶然を、男はやれない。あと、外から見える家族は氷山の一角で、実体はヘドロみたいなもんだっていうのも妙に納得。竹内まりやは、凍りかけた愛をあたためなおしてとかなんとか言ってるが、中途半端にぬるい状態が続いてると、腐ってしまってあたためなおしたら異臭をはなつのではないか。そのまんま、冷蔵庫にしまってなかったことにしておくという夫婦のかたちも、サノヨーコの知り合いにはある。そのひとのことばがものすごくて、
「幸せになれば不幸になる事もある。不幸のどん底にいればそれ以上不幸になる事はないから安心です。不幸は安心なものですよ」
泣かせる。そして、それに対するヨーコのコメントが、

何かウンコが神々しい光を発しているようではないか。

たたみかけるようにものすごい。そして神々しいウンコというと、アサヒビール社屋にのっかっているあれを思わずにおれんのだった。