まみ めも

つむじまがりといわれます

アマデウス

風邪をひいて二週間というもの、味覚がほとんどなかった。食事は温度と食感があるのみで、甘みも苦みもしょっぱさもあったもんではない。ぶりかまを焼いて、つつきながら、きっとこれはおいしいんだろうなあと思いながら食べるかなしさと言ったらない。イワン・デニーソヴィチの啜ったスープは具の乏しい貧相なものだったが、彼には鋭敏な味覚が備わっていたので、立派なご馳走だったが、お皿がどれほど豪勢でもお粗末な味覚ではどうしようもない。元気をだそうと好きなドーナツを買ってみたが、そのドーナツも無論のこと味がないので、いよいよしょげてしまった。
きのう、ちかくの公園でサッカーボールを蹴っていたセイちゃんが、公園でごはんを食べたいというので、そこらのローソンで菓子パンやサンドイッチ、からあげクンを買い込み、噴水を眺めながら食べたときに、ふいに味覚が戻りはじめていることに気づいた。青空のしたで味覚のよろこびに溺れる。気分はまさしくイワン・デニーソヴィチ。長期にわたる味覚の不在がイワン・デニーソヴィチを可能にすることを発見した。

アマデウス [DVD]

アマデウス [DVD]

図書館ではDVDの貸出もあると知ってアマデウスを予約したのが、いつだったか、忘れたが、ようやく順番がめぐってきた。モーツァルトの半生を、サリエリという宮廷作曲家の告白のかたちで辿る。「凡人の神」サリエリを一人称にしたところがこの脚本を際立たせていて、モーツァルトのかなでる音楽に神を見ながら、ルサンチマンを徹底的に募らせ狂気していく。いま読んでいる新書に、キリスト教の神とのコミュニケーション(祈り)はディスコミュニケーションに尽きるというようなことが書いてあるが、サリエリの神様もけっしてサリエリの信仰には応えない。絶対的にうつくしいものや神様に触れたからといって、人間は救われるわけではなく、狂気の果てにみずからを神と思い込むことで、じぶんを裏切った神のごとく一切合財とディスコミュニケートしていくところが、おみごとだった。