復職初日のBGMはマイケルジャクソンに決めている。マイケルの歌声をきいていると、根拠のない万能感がすべてを肯定してくれるような気がする。初日にはたいした業務のあるはずもなく、方々に挨拶をし、パソコンの設定、マンツーマンの復帰後研修をやり、あとはアクセス権のあるファイルを眺めて過ごした。
仕事をあがり、こどもたちを迎えにいき、フクちゃんをだっこ、セイちゃんをバギーにのせて、家までもどり、玄関先に荷物をおろし、問診票と母子手帳をにぎりしめてクリニックにいき、フクちゃんの予防接種をすませ、帰宅、したあたりで、緊張と疲れのせいかみるみる体調が悪くなり、吐き気と頭痛にくらくらしながら、なんとか肉や野菜を切って炒めて夕飯の支度(菜の花と鶏肉としめじのあんかけ丼というさっぱりしたものなのに味見もできない)、えづきながらこどもらを順々に風呂にいれ、ぐったりしたところで宿六が帰ってきたのでバトンタッチして布団に横になった。宿六に渡されたウイダーインゼリーを半分ほど吸って、そのうちセイちゃんが布団に連れられて、ねむり、しばらくしておんぶで寝ていたフクちゃんがやってきて、わたしはポカリスエットをコップに一杯、フクちゃんは乳を飲んで寝た。朝になって頭痛もおさまり小康を得たが、今度は宿六が吐き気に苦しんでいる。
- 作者: 橋爪大三郎,大澤真幸
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2011/05/18
- メディア: 新書
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神様とのコミュニケーション(祈り)は、ディスコミュニケーション
隣人愛のいちばん大事な点は、人が人を裁かないこと
イエス・キリストは完全な人間であって、しかも、完全な神の子である、つまり二百パーセントの存在
神様に愛される人間と、愛されない人間がいる、その理不尽を受け入れなければならない
理性で到達できない先に信仰がある
わたしは神様はいるような気がするし、それはマイケルジャクソンや、ひなげしや藤の花が群れてゆらゆら風にそよいでいるのを目にしたとき、こどもたち、つげ義春の貧困旅行記の阿弥陀如来の記述、ものすごくかなしいやる方ない出来事に接したとき、なんとなくそんな気がする、信じたいという程度のもので、神様はいないと断言できるほど自信も持ち合わせていないというだけのことだが、神様は理屈をこえているし、そもそもわたしの思う神様はキリスト教の神様なのか八百万の神なのか仏様なのか、そこらへんもあやしい、そして、あやしい神様は、なにも答えてはくれないし、自分自身以上のものはなにも与えてくれない。それでいいと思っている。