まみ めも

つむじまがりといわれます

けものたちは故郷をめざす

育休のあける二日前の水曜日、神楽坂にいく。おなじく育休のあける友人とフレンチを食べる約束なのだった。早めについて、歩道のベンチで本をぺらぺらやる。風がビュービュー吹いている。鼻水がやたら出る。

久しぶりの安部公房をそのベンチで読み終えた。図書館で借りた1970年の講談社単行本。表紙の画像が見つからんが、なかなかのデザインだ。要は明朝体の活字でタイトルを縦書きに二行で並べただけだが、表紙からぎりぎりではみ出ている。写真に撮っておけばよかったな。読み終えてなかば放心しとるとこに友人がきて、食べログで調べたというお店を探し歩いたら、古いアパートの隣にあるこれまた古びた家が改装工事中のところがそうだというんで、とてもフレンチをだしているお店に見えず、狐につままれたみたいな気分がした。結局そばの別のフレンチの店にはいったが、わたしはデニムのワンピースにデニムのレギンスという断られてもしかたのない真っ青ないでたちなのだったが、入店できたのでよかった。風邪気味であんまり食欲がなく、一番こじんまりしたランチのコースを選び、真鯛ポワレをもらった。わたしはシャンパン、彼女は白ワインで乾杯。そのあと坂をぶらぶら下り、川沿いのカフェでお茶をして、それぞれに乳を張らせて解散。散々に飲んだくれていた昔のふたりが体型も話題もオカアサンしているのだから人生はわからない。

昨日の中に今日があるように、今日の中に明日があり、明日の中に今日があるように、今日の中に昨日が生きている。そんなふうなのが人間の生活だと教えられ、彼もまたそれを信じてきた。しかし戦争の結果はそうした約束をばらばらな無関係なものに分解してしまったのだ。
(中略)もう二度と帰ってこない昨日、まだ見たこともない明日、その間にはさまれた今日の意味を、どんなふうに思ったらいいのだろう?

そのドアの表には希望と書いてあり、しかし裏には絶望と書いてあったのかもしれない。ドアとはいずれそんなものかもしれないのだ。前から見ていればつねに希望であり、振向けばそれが絶望にかわる。それなら振向かずに前だけを見ていよう。

なんだかこれだけで胸がいっぱいになるような描写だが、戦争孤児となった少年が日本をめざしてとことん振り向かずにガンバル話で、ものすごくおもしろく、ぐいぐい読んだあとはコテンパンに打ちのめされるようだった。安部公房、まじでかっこいい。惚れた。