休みをとった金曜日、いつものドーナツと、コーヒーをさんざんおかわりしてだぶだぶのおなかで日に当たって歩きまわったらなんだかくたびれてしまった。夜、こどもたちを寝かしてひとりこじあけて飲んだワインのタンニンがやたら舌に気になるなあと思いながらちびちびやったら、果たせるかな、翌朝宿酔いに見舞われた。展覧会にだしたら入賞しそうなみごとな宿酔い。朝はフルーツをたべたものの、うなぎ祭りにでかけていって、会場がみえたところでうなぎを想像したらたまらなくなり、もどした。そのあと、散々だしつくし、水分補給のポカリスエットももどし、夕方はぐったり毛布に包まりながら稀勢の里と白鵬の取組だけはなんとかみたが、たまらず、すがるような思いで胃腸薬を飲んだら、すっきりとおさまってしまったので胃腸薬はすごい。夕飯は、おそるおそる生野菜のサラダをつまんだ。おわってみればちょっとしたデトックスをやったようなつもりになり、ほんの少し身体が軽いような気がする。
- 作者: 庄野潤三,阪田寛夫
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1988/04/04
- メディア: 文庫
- クリック: 16回
- この商品を含むブログ (42件) を見る
庄野潤三の、私小説めいた小説だかエッセイだかわからぬのを読むのははじめて。晩年のシリーズではやわらかな日常を切り取っているが、こちらではわりと細かなことに気を揉んだり、せっかちな庄野潤三の性質が垣間見えておもしろい。そんな庄野潤三が、テレビ番組について、
舞台の町も変りがなくて、時間の流れから置き忘れられたようにいつも同じ姿でそこにある。
みている方では、ついいつまでもこの劇が続いてゆくような気持でいる。これが終りになって、あの馴染のある主人公や常連の人物の声がもう二度と再び聞かれなくなるということは想像もしない。
といっている、それがそのままわたしが庄野潤三の本で味わう感興なので、胸がぎゅうっとした。この本は、その日その日の出来事を書き溜めずに一日の量をきめて書いていった、ある平凡な家族の平凡な記録で、ブログにも書き留められないようなあまりな日常、それこそひじきと油揚げの煮物のようなさりげなさで、そのやさしさにじんわりとする。庄野潤三の、著作に対する思いというのもあとがきで触れられていて、
「いま」を書いてみようと思っている。漠然とそういう大ざっぱな考えは決まっている。その「いま」というのは、いまのいままでそこにあって、たちまち無くなってしまうものである。その、いまそこに在り、いつまでも同じ状態でつづきそうに見えていたものが、次の瞬間にはこの世から無くなってしまっている具合を書いてみたい。
なくなってしまった「いま」が本の頁の上に凝結して、「生きていることは、やっぱり懐かしいことだな!」と思わせたかったという、庄野潤三のたくらみは大成功している。すこし泣きたいような懐かしさ。