こどもたちは少しずつ元気を取り戻し、フクちゃんは、頭から発する焼けたパンのにおい、病気のあいだはにおわなかったが、食欲が戻ってきたら、また、におうようになった。なんて素直な肉体だろうといじらしい。金曜日の夜は、出張で上京した父と、東京にいる妹が泊まっていった。夕飯は、手土産に焼き鳥をめいっぱい持ってきてくれたのと、前日までに仕込んでおいた明太子のポテトサラダと、蒸し野菜、厚揚げの煮たの、茄子とズッキーニとプチトマトとしめじを赤ワインと酢と醤油で炒め煮たの、胡瓜の中華風漬物、金目鯛とあさりの料理の残りスープで作ったリゾット、あと、しらすをまぜた卵焼きをつくった。茶碗がテーブルいっぱいに並べられると、豪勢な気持ちになって、あとから、テーブルの写真を撮っておけばよかったな、と思った。
- 作者: 庄野潤三
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1965/03/01
- メディア: 文庫
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プールサイド小景
相客
五人の男
イタリア風
蟹
静物
「プールサイド小景」
不安の心持が惻惻と迫つて、やはらかい美しい文章で、香気のやうなふくいくとしたものがある(滝井孝作)
「静物 」
もし芥川や太宰がこの作品を読んだら、ああ、われあやまてりと断腸の思いをしたにちがいない(平野謙)
平凡な現実を淡々とながめて、そこにちやんと地獄を発見してゐる(三島由紀夫)
「夕べの雲」の解説で、ここらのコメントを読み、これは読まねばならんと前のめりで図書館で借りてきた。すこし古い新潮文庫で、表紙はわら半紙が焼けたような懐かしい色をしていた。なんとなく、プールサイドという語感から夏に読みたいような気がしていたが、晩夏のほうが似合ったかもしれない。早まった。プールサイドという単語は、塩素のにおいと、熱くなったアスファルト、耳に水がはいったら、耳を下にしてあの熱い地べたにくっつけると、水がジュワッと滴るあのときの感じ、ちょっと気持ちよく騙されたようなすっきり感、山下達郎と、むかしのスピッツは、プールの水が鼻にツーンとするあのおかしみを含んだせつなさにぴったりする。初期の作品は庄野潤三にとっては若気の至り的な部分もあったことが解説で述べられていた。
自分の睫毛のまたたきで相手の睫毛を持ち上げ、ゆすぶるのだ。それは不思議な感触だ。たとえば二羽の小鳥がせっせとおしゃべりに余念がないという感じであったり、線香花火の終り近く火の玉から間を置いて飛び散る細かい模様の火花にも似ている。
たしかに、晩年の枯れ専にはたまらない庄野潤三とはだいぶイメージがちがうけれど、とりとめなく刹那を記録していく方法はやっぱり庄野潤三の独壇場だと思う。