まみ めも

つむじまがりといわれます

どんぐり姉妹

先週から結局三日半やすんだ。三日半ですんだのは、義母が三遍も足を運んでくれたからなんであって、義母がくるたびにご馳走を持参してくれるものだから、一挙に食卓が華やかになった。寿司に焼き鳥、葡萄に餃子に肉まん。今半の肉ですき焼きもやった。翌日はうどんすきをした。留守番のセイちゃんの昼飯がドーナツ三個だったりもし、わたしも思わず苦笑いしてしまったが、宿六が義母に説教をたれていた。でもまあ、常態でなければよいかと思わんでもないし、思い切り甘えさせてくれる人がいてもいいだろうという気もする。わたしはとても甘やかしてばかりはやれない、ふとするとむくむくと鬼のような気持ちがもたげてきてこどもを容赦なく叱りとばしてしまう。わが子はとてつもなくかわいい、ちょっと怖いぐらいかわいいが、同時にとてつもなく憎らしくもなる。恋だって、好きなだけというのはそういえば物足りなく、憎らしくてしかたないので結婚したようなところもあって、結婚はちょっとした復讐であったりもする。そういうふうにしか生きられないのだから、しょうがない、宿六には犠牲になっていただこう。

どんぐり姉妹 (新潮文庫)

どんぐり姉妹 (新潮文庫)

通勤の鞄に本を忘れたときに、乗り換え駅の本屋で購入。すこし前は、よしもとばななのイメージは、ひらがなが多く、改行が多く、会話が多く、したがって頁を開いたときの余白が多いので、白っぽい視界になんだかそれこそ白けた気持ちになるので、もったいないような気がしてとても買わなかった。それに、大学のドイツ語の授業であろうことかキッチンのドイツ語訳を読み解くのをやり、ドイツ語にもよしもとばななにもお手上げした記憶も手伝って、どうにもいかんのだった。ちなみに、もうひとつのドイツ語クラスでは旧約聖書をやっていて、なんだかとんでもないところに迷い込んでしまったなと思ったが、今となってはどちらの講義ももう一度受けてみたい気もしないでもない。よしもとばななを読むと、やっぱりふわふわとした気持ちになり、つかみどころのないものを、つかみそうでやっぱりするりとつかめなくて、もっとなまなましたものを欲しくなってしまうのは、わたしのなかの煮えたぎる業のようなものが、そうさせるのだろうか。