まみ めも

つむじまがりといわれます

ひでおと素子の愛の交換日記

宿六がねこんでいる間は、仕事と育児におわれ、こどもが寝たあとは気の抜けたようになって、家のことをやる気になれず、ぺらぺらと本ばっかり読んでいた。風呂の湯をあたためなおし、こどもが泣いたときにわかるように浴室のドアをあけて、階段に通じるドアも開け放し、給湯器がうなる音だけを聞きながら、ひさしぶりの風呂読みで憂さを晴らそうとしていたのだと思う。風呂からあがったら、コップにいも焼酎を一杯だけ飲んで、洗濯機の予約をいれ、そのまま蒲団にはいって寝た。風呂読みも、酒も、好きだが、それにしてもつまらんなあとそればっかり思っていた。

そんなときに読むのは、ややこしくないもんに限る。ということで、本棚から選ぶ。吾妻ひでおは知っていたが、新井素子は知らない。でも、ブックオフの105円コーナーで立ち読みしたら買わずにおられんかった。なんたって、しょっぱなの吾妻ひでおの漫画が、新井素子物語というタイトルで、かわいそうなみなし子少女の素子が、いじわるなナメクジの家にもらわれていき、毎日ナメクジのネバネバを取る仕事をさせられているという三コマからはじまるので、たまらない気持ちになって(オドラデク的な)迷わずレジに持っていった。すごくまんが的な文章をかくけれど、まんが家ではなく、吾妻ひでおの漫画との脈絡もあるのかないのか、ふわふわした本だった。新井素子って、ケセランパサランみたい。

時々ーー若い頃には、あるのだと思う。未来は漠としていて、でも、漠としているからこそ、どこまでも開けていて。自分は本当に何でもできて、どこまでも遠い処へゆけるのだという確信が、心の中にうまれる時が。あとで思い返した時、記憶のひだの中に埋もれていても、そこだけよく判る、すぐ思い出せるという瞬間が。川原はどこまでも、どこまでも広がり、山の稜線は視界から消え、世界の中心に一人で立っていると思える瞬間が。