土曜の午後、昼寝の布団からはいだして、駅前でコーヒーとドーナツをひとつ、15分ほど時間をつぶしてから歯医者にいき、親不知を抜く。これまでの経験談で、やくざになぐられたみたいな青あざのひどい顔で帰ってきたという話や、親不知を抜くより出産のほうがまし、とか、あるいは頬が腫れ上がった顔をいくつも見てきたので、多少の覚悟はあったつもりだったが、診察台で口をあけて、麻酔を打ち出したところで、ひょっとして覚悟が足りなかったのではないかと急速に焦ったのもつかの間、麻酔から五分とたたないうちに、どうやらペンチのようなものを握りしめたクールな女医が奥歯をみしみしいわせはじめた。あんまり痛いのは困るなとどきどきしていたら、もう抜けますね、といわれ、唾がたまる暇もないうちに、抜けてしまった。みしみししただけで、痛みもなかったが、すこしなまぐさい味がする。抜いた歯を見せてもらったら、血が滲んで、ふたつに割れていた。ガーゼを噛み締めて帰宅したら、こどもたちはまだ寝ていて、そばで本を読み、起き出してから、おやつを一緒にたべて、あんまり違和感もなく、あっけない。日が沈んできて、いよいよ麻酔がきれて痛みがくるぞと待ち構えていたが、たいした痛みもなく、こどもらを寝かしつけするときに、意識を集中すると、歯茎で肉に心臓のビートをじんじんと感じる程度だった。そうだった、さようならはいつも終わってしまえばあっけない。
- 作者: 今田美奈子
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 1984/09
- メディア: 文庫
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この本は、レシピというよりはノウハウをまとめたもので、たとえば、米を研ぐときに泡立て器を使ってはいかがとかそういう内容(それしか実用できていない)。それにしても、今田美奈子というひとのマシンガンな文章に打ちのめされてしまった。例えば、おふくろの味について書いた文章より抜粋すると、
「おふくろの味」とは永久に妻の敵として存在し、男たちは終わりのない戦いのなかで、郷愁(ノスタルジア)を求めつづける兵士たちである
すごい。真実をぶっさしておりながら詩情を醸している。一事が万事この調子で、おっとりしながらとどまるところを知らない朗々とした書き口。黒柳徹子も平野レミも、口ほどには文章はマシンガンではなかったが、すごい人があったもんだ。