まみ めも

つむじまがりといわれます

出発は遂に訪れず

日曜は大荒れの天気になるというので、家を出なかった。宿六がイオンに週末の買い出しにいったら、増税まえの駆け込み需要で品薄だったらしい。夕方になって夕焼けがみえるといって、宿六が部屋干しの洗濯物をベランダに出して、そのまま風呂、あがってからラーメンを煮ていたら、雨粒がばらばらいいだして、キッチンを離れられないで、宿六があわてて洗濯物を取り込んだ。ラーメンに焼ぶたとほうれん草とメンマともやしをのせ、あとはブロッコリーと豚とピーマンの味噌炒めをならべて、食卓について、こどもたちにはラーメンを小皿にとってやってさましつつ、やっとすする段になって、外で稲光、三秒して、どーんと音が空気を震わせて鳴った。そうしたら、フクちゃんの表情がはりついたように強張り、イラナイ、おかあちゃんたべて、と、食いしん坊なうえにちゅるちゅるラーメンが大好きなフクちゃんらしからぬことを言い出した。びっくりしたの?ときくと、ビックリしちゃった、とスプーンをにぎった手をふるわせて泣き出し(我慢の糸がきれたらしい)、ダッコしてー、とねだるので、椅子からおろして抱いてやると、胸がいっぱいになってしまったらしく、わたしの首元にくったりうなだれて、はりついたようになってしまった。おにぎりならたべるというんで、あたためてやったが、やっぱりイラナイといった。かみなり、もう遠くの街にいっちゃったよ、といったが、その夜はしおれっぱなしで、翌朝もその次の朝も、とおくのまちにいっちゃった?ときいてきた。よっぽど怖かったとみえる。セイちゃんはといえば、ラーメンを啜って平気そうにしていたが、泣き出したフクちゃんを慰めていたら、つられてこわさが増してきたらしく、こわくなっちゃった〜と泣きそうになりながらも、フクちゃんの余したおにぎりを平らげていた。
感情がなんらかのボーダーをこえると胸がいっぱいになって食べられないというのは、よくあるやつで、わたしは宿六を好きすぎたときは、彼をまえにすると食事がのどを通らなかった。いつのまにか平気になってしまったが、あの当時は本当になにもいらなかった。自分の好きという気持ちでおなかがふくれた。おんなじように怖い気持ちでも、おそらく怒りやうれしさでも、お腹は膨らますことができるだろう。わたしも怖いものをみながら食事したらダイエットになるだろうなとひらめいたが、ちょっと想像してみただけでいやになって、焼きそばをしっかりと平らげた。

出発は遂に訪れず (新潮文庫)

出発は遂に訪れず (新潮文庫)

1 島の果て 7-45
2 単独旅行者 47-139
3 夢の中での日常 141-171
4 兆 173-214
5 帰巣者の憂鬱 215-256
6 廃址 257-281
7 帰魂譚 283-303
8 マヤと一緒に 305-342
9 出発は遂に訪れず 343-396
「島の果て」だけはどこかで読んだことがあった。島尾敏雄については、私小説をやるということ、「死の棘」で嫉妬に狂う奥さんのことしか知らなかったが、特攻隊長で、出撃命令をだされて死のきわまでいきながら終戦を迎えている。

その頃は毎日毎日がぷつんと絶ち切れていて、昔の日とも将来の日ともつながりがないように感じられてきました。

そして僕にも呼び名が無い。僕がそれだから、どんな前後の時代に住んでいたのか、知る由がない。こんな時代だよ、とひとに言われた所で、どれ一つそれを掴まえて自分で見ることが出来よう。僕はただ推移して、見、聴き、触り、嗅ぎして、そしてどれにも僕流のアクセントがついていた。

戦争のころに青年期をすごした人たちは、「あした」を想像できなかったから戦争のおわったあとも刹那的に生きるしか方法を知らなかったとよくいうが、島尾敏雄はその極限で、時間も名前も失ってしまったのだなあと思う。昨日もない、明日もない、名前もない、空白のような自分を埋めるためのことばたち。