まみ めも

つむじまがりといわれます

百年の散歩

ずるずると深みにはまっていた実験にもなんとか形がついて仕事納め。そくそくと寒さが首筋のあたりに迫るものの、地元のしみとおるような寒さとはちがうので歳の瀬の感じがないままでいる。世の中はクリスマスが終わったとたんお正月モードに舵をとり、スーパーマーケットも紅白のだんだらで飾りつけられているのに、気持ちが全然ついていかない。こざっぱりした気分で新年を迎えたいとおもって散髪をすませてきた。店の中はラジオが流れていて、むっちりと太い脚が…というのでなにかと思ったら蟹の話だった。

百年の散歩

百年の散歩

ト。

わたしは今日もあの人を待っている、ベルリンの街を歩きながら。「カント通り」「カール・マルクス通り」など、歴史と世界が交差する都市ベルリンに実在する10の通りからなる連作長編。『新潮』掲載を書籍化。
カント通り p5-26 
カール・マルクス通り p27-51 
マルティン・ルター通り p53-77 
レネー・シンテニス広場 p79-98 
ローザ・ルクセンブルク通り p99-122 
プーシキン並木通り p123-144 
リヒャルト・ワーグナー通り p145-169 
コルヴィッツ通り p171-193 
トゥホルスキー通り p195-220 
マヤコフスキーリング p221-246 

「こんなにたくさんの人がいて、自分の会いたいたった一人の人とは会えるんだろうか。時間を決めて、場所を決めて、待ち合わせして、約束の時間を楽しみにして、会った後は、そのことを日記に書いて、何度も思い出して、霞のように消えてしまいそうな出逢いをしっかり固めていこうとするのだけれど、都市は水のように指の間からもれて、人間たちは気体になって蒸発し、期待して、待っても、今日、あの人はきっと来ないだろう。」
山下達郎のクリスマス・イブも「きっと君は来ない」からよいのであって、永遠にかなわないものを抱えて待ち続ける人間が一番尊い。あらかじめ諦めた気持ちを用意した待ち合わせをいくつか味わったことを思い出す。諦めていても、どこかに諦めきれないところが残っていて、本当にやりきれなかった。そのときの、自分が待つという動詞になってしまったのではないかというくらいに思いつめた気持ちは、なかなかのもんだと思う。