まみ めも

つむじまがりといわれます

死をポケットに入れて

そういやいつの間にか耳のくぐもっていたのは治っているのだった。小学生のころは、よくこれをこじらして中耳炎になった。当時通っていた耳鼻科の女医がおそろしいので、耳がくぐもると聴覚よりも気分のほうが曇った。ずっと、風呂やプールで耳に入った水がとれないんだと思っていたが、お医者によると、外耳の水はほっといても蒸発するんで、綿棒つっこんだり、けんけんぱ、しても、無意味らしい。あのころ、いよいよ耳がいけなくなり耳鼻科にいくと、耳と鼻に管をあてがわれて、ガッコウといってください、といわれ、なんの気もなしに、ガッコウ、というと、コの音の出る瞬間にバルーンみたいもので鼻から耳に空気を通され、面食らって、気づいたら耳のくぐもりが取れていた。ガッコウという単語の音の羅列に解剖学的な意味があったのか、よくわからない。ものすごくインチキめいた治療で、いいなあと思う。今回も、二十年ぶりくらいでガッコウをやるのかと内心の期待があった。ガッコウはなかったが、ズンドコ重低音を聴くという療法も、インチキめいていて悪くない。

死をポケットに入れて (河出文庫)

死をポケットに入れて (河出文庫)

ブックオフで105円。週末の風呂読み十分一本勝負でちまちまと読む。ブコウスキーはときどき読むぐらいがちょうどいいのかもしれない。どっぷり読むと、公衆便所の便器にむかってゲロを吐き続けているような感じがしてくる。それはそれで悪くない経験だが(ゲロを吐き続けることではなく、ブコウスキーにどっぷりすること)、ちょっといまはそういう気分じゃない。これはブコウスキー最晩年の日記なので便器感は低いが、どこかしらドヤ街のにおいは漂う。それにしてもいいタイトル。原題はTHE CAPTAIN IS OUT TO LUNCH AND THE SAILORS HAVE TAKEN OVER THE SHIP、翻訳の中川五郎が、

わたしは死を左のポケットに入れて持ち歩いている。そいつを取り出して、話しかけてみる。「やあ、ベイビー、どうしてる?いつわたしのもとにやってきてくれるのかな?」

という本文のフレーズから邦題をつけたらしい。「死ぬということは、ちょうど朝起きたら靴を履くように、人がしなければならないことのひとつにしかすぎない」、本当にそんな感じだ。ナンセンスなことが山ほど書かれていて笑えるし(過去の作家たちに対する勝手なイメージを羅列して、ドストエフスキーは少女に肉欲があっただの、トルストイはありもしないことに激怒していて、ヘミングウェイに至っては、秘密でバレエの練習をしていた、といわれていて、完全なでっち上げなのになぜだか読んでいるこちらが赤裸々な秘密を知ってしまって恥ずかしい思いをするようだ)、さいあくな気分のときにはブコウスキーがわたしの代わりにくそくらえ、ちくしょうめと悪態をついてくれる。