まみ めも

つむじまがりといわれます

豆腐の如く

名古屋場所。遠藤の締め込みの色が変わった。やっぱりピンクが好きらしい。昨日は「力士の浴衣」の特集で、取り組みを終えて帰っていくおすもうさんの浴衣の柄をいちいちうつしてくれた。豪風関の浴衣は、出身の秋田県の形に四股名を入れて、出刃包丁をもったなまはげが描いてあって、いかしている。カメラに向かってポーズを決める姿もチャーミングで、豪風関が一挙に好きになっちゃったなあ。

ブックオフで105円。

 豆腐ほど好く出来た漢はあるまい。
 彼は一見、佛頂面をしてゐるけれども決してカンカン頭の木念人ではなく、軟かさの点では申し分がない。しかも、身を崩さぬだけのしまりはもってゐる。煮ても焼いても食えぬ奴と云ふ言葉とは反対に、煮てもよろしく、焼いてもよろしく、汁にしても、あんをかけても、又は沸きたぎる油で揚げても、寒天の空に凍らしても、それぞれの味を出すのだから面白い。
 又、豆腐ほど相手を嫌ばぬ者はない。チリの鍋に入っては鯛と同座して恥ぢない。スキの鍋に入っては鶏と相交って相和する。ノッペイ汁としては大根や芋と好き友人であり、更におでんにおいては蒟蒻や竹輪と強調を保つ。されば正月の重詰めの中にも顔を出すし、佛事のお皿にも一役を承(うけたまわ)らずには居ない。
 彼は実に融通がきく、自然に凡てに順応する。蓋し、彼が偏執的なる小我を持たずして、いはば無我の境地に到り得て居るからである。金剛経に「應無所住而生其心」=應に住する所無くして而も其の心を生ずべし(金剛般若經)とある。これが自分の境地だと腰を据ゑておさまる心がなくして、与えられたる所に従って生き、しかあるがままの時に即して振舞ふ。
 此の自然にして自由なるものの姿、これが豆腐なのである。

という豆腐べた褒めの荻原井泉水の随筆をなぞって、豆腐のように生きることを提案する一冊。わたしは、実は、豆腐はあんまり食べないし、料理もしないが、そういえば、昔、東京から石川まで高速道路をドライブする車中、話題をもてあました友人と一番えらいおかずはなにか、という話題になり、彼は「麻婆豆腐」だといった。なんたって豆腐がおかずになるんだから、麻婆豆腐がえらい、ということだった。わたしは実は豆腐を料理するのはあんまり得意ではなかったりするが、冷奴をお箸でななめに切り取ってやわらかさとかたさとを確かめたい気持ちになった。