まみ めも

つむじまがりといわれます

生きることはすごいこと

石川で過ごす週末も最後なので、夫とセイちゃんと三人でドライブ、お昼を済ましたあとで車を海の方角に走らせる。西にいけば海につくだろうと当てずっぽうに道を選んでいくと、そのうち家屋に海辺の風情がしてきて、アスファルトの上を砂利がざらざらしている細い坂道を、くだって、のぼると、海にでた。海にでる道で砂利を踏むタイヤの音が胸をせつなくする。砂浜には釣り人がまばらに見えて気だるい陽射しを浴びている。船が何槽か遠くからやってきて、ちいさな灯台のある港のむこうに消えていった。砂浜には降りないで、テトラポットのむこうの海をぼんやり眺めて、車に戻ると、親戚の家でもらってきた苺が車中の気温でぬくまって、甘いにおいを充満していた。そのあとは東へ、鍋谷の集落をとおり、山道をしばらくのぼった。杉の木立のなかをせせらぎが流れて、鳥がさえずり、セイちゃんはチャイルドシートでねむってしまった。段々に家に留守番しているフクちゃんが気になりだし、気になるとおっぱいの奥がツーンとして張ってくる。なんとなく言葉すくなになってしまい、引き返すことにした。家につくと、フクちゃんはベビーベッドですうすう寝ており、ほっとする。湯を沸かし、焙じ茶をいれて、ぬるく甘い苺をつまんだ。

生きることはすごいこと (講談社SOPHIA BOOKS)

生きることはすごいこと (講談社SOPHIA BOOKS)

画家の安野光雅と臨床心理学者の河合隼雄との対談本。おもしろくてあっというまに読み終える。アンノさんが絵を描くときは、ここの屋根が赤ならここらへんにも赤がなければならぬ、ここが赤ならここに緑がなければならぬ、というふうに、ねばならぬ、ねばならぬ、で絵を描くらしいが、数学者にもやっぱりそうやって論文をかくひとがいるという。漱石夢十夜でも、運慶が仁王を彫るのを、「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」といってるが、才能っていうのはそういうもんなんだろう。本のなかではそういうのを「ミューズ」といっている。わたしみたいに勉強でも、料理でも、自分でじぶんを引っ張っていかなきゃならんようなやりかたは、本当ではないんだろうなあ。ミューズの不在。そんなアンノさんが、箱庭をつくりながら、じぶんでつくっている一方でじぶんの痕跡をのこしたくないので痕跡を消す作業をやっている、絵を描くときもおなじ、といっていて、なんとなくわかる気がして納得してしまうのだった。河合先生は臨床心理学者でありながら、「わからんでもええ、治ったらええ。治らんでもええ、生きとったらええ」と言ってるのもよかった。ミューズがおらんでもええ。