まみ めも

つむじまがりといわれます

いつか王子駅で

いつか王子駅で (新潮文庫)

いつか王子駅で (新潮文庫)

かつて西ヶ原に住んでいて、王子駅を過ぎて自転車で二十分くらいのところに通い、家庭教師をやっていた。その家のおかあさんはイタコの娘だとかいう話で、茶の間のテレビの上にはちいさな座布団に水晶玉らしきものがのせられていた。イタコの血を引くおかあさんも何かがみえるのか、感じるのか、そんな具合で、ともかくわたしは第一印象でお気に召していただけたらしかった。ちかくの神社は、あれはよくない、と顔をしかめていた。わたしはというと、ちっともそっち方面に才能がないので、ぼんやりした顔で、そうなんですね、と肯定とも否定ともわからない相槌を返していたっけ。
そんなわけで、王子界隈はすこし雰囲気が知れているので、いつか王子駅でというのを選んでみた、が、二頁めにしていけなくなってまった。

(略)あの甘ったるいコーヒー牛乳か、なにが入っているのだか素人には判別のつかない薄黄色の、それもバナナ味の子ども用練りはみがきでも溶いたみたいな色をしたフルーツ牛乳と称する液体を飲むのだが、よく冷えた厚手のガラス瓶の中身を守っている紙の蓋を、さらにそのうえにかぶさっている色のついたビニールもろともプラスチック製の柄の先の針ですぽんと開ける際に心地よく音がはじけないと、つまり上蓋の厚紙がほどよく乾燥し、針を刺したときに柄がかすかにしなって、乾いた音とともにそれをはねあげてくれないと満足せず、不運にも蓋が湿っていてしんなりと力なく取れてしまった日には、

こうやって、本人にだけは意味ありげな日常の細部をねちねちと嫌味なまでに細かくあえて読みにくく描写してみせる演出、わかるひとにわかってもらえればいいというスタンスが活字から滲み出て、内輪うけの馴れ合いやってるお笑いみたいな、この感じ、どこかで知っておるぞ、と浮かんだのが西村賢太だった。西村賢太苦役列車しか読まないが、あれにも王子の古書店がでてきた気がするが、どうだったっけ。知る人ぞ的な文学を取り上げるとこまでおなじ。こういうのが好きなひとは存分にたのしめるのだとおもうが、わたしは苛々してきていけない、もうするするっと上滑りに読んで閉じてしまった。