- 作者: 島崎藤村
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2002/02/15
- メディア: 文庫
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島崎藤村の千曲川のスケッチは、文字による小諸の風景や人びとのスケッチ。井の頭線での力強いコンテのラフ・スケッチに対してこちらは鉛筆で丁寧に繊細に描きとったスケッチという印象。車窓をながめているように文字の上をこころがうつろっていく。フクちゃんを胸の上にのせて、ソファにねそべって、毛布をかぶり、フクちゃんの背中のうえで文庫本をひらいて読んでいたら、小諸の情景がきれぎれの雲になって浮かんでは消え、空をながめる心地よさでうとうとする。読んだそばから忘れてしまう贅沢。ときどき、胸の上のぬくもりが、くつくつと笑い出してみたり、渋面をつくってみたり、おならをこいたり、する。千曲川のスケッチにも母子の情景。なんでもない暮らしの一途さ、そのなんでもない暮らしをじっと見つめてかきとっていく藤村の視線もまたいじらしい。
手甲をはめ、浅黄の襷を掛け、腕をあらわにして、働いている女もあった。草土手の上に寝かされた乳呑児が、急に眼を覚まして泣出すと、若い母は鍬を置いて、その児の方へ駆けて来た。そして、畠中で、大きな乳房の垂下った懐をさぐらせた。私は無心な絵を見る心地がして、しばらくそこに立って、この母子の方を眺めていた。