まみ めも

つむじまがりといわれます

恐ろしい話(ちくま文学の森)

恐ろしい話 (ちくま文学の森)
出エジプト記」より 文語訳「旧約聖書」/詩人のナプキン(アポリネール)/バッソンピエール元帥の回想記から(ホフマンスタール)/蝿(ピランデルロ)/爪(アイリッシュ)/信号手(ディケンズ)/お前が犯人だ(ポー)/盗賊の花むこ(グリム)/ロカルノの女乞食(クライスト)/緑の物怪(ネルヴァル)/竃の中の顔(田中貢太郎)/剣を鍛える話(魯迅)/断頭台の秘密(ヴィリエ・ド・リラダン)/剃刀(志賀直哉)/三浦右衛門の最後(菊池寛)/利根の渡(岡本綺堂)/死後の恋(夢野久作)/網膜脈視症(木々高太郎)/罪のあがない(サキ)/ひも(モーパッサン)/マウントドレイゴ卿の死(モーム)/ごくつぶし(ミルボー)/貧家の子女がその両親並びに祖国にとっての重荷となることを防止し、かつ社会に対して有用ならしめんとする方法についての私案(スウィフト)/ひかりごけ武田泰淳
人間、なにがおそろしいって「えたいの知れないもの」がおそろしいのであって、たとえば幽霊なんか、わたしはちっとも見たことがない、想像のおよびもつかない、のでおそろしい。しかし、「えたいの知れないもの」は、自分の外側にばかりあるわけではなくて、自分の内側にある「えたいの知れないもの」に脅かされることもあり、たとえば、志賀直哉の剃刀だとか、武田泰淳ひかりごけだとか、は、なにがおそろしいというと、自分が陥りかねない(いや、陥らないとおもいたいけど)ような深淵、自分でもいままで存在に気づいていなかったぎりぎりの「ふち」を覗いてしまうおそろしさだった。
そういえば、わたしは小学生のころ、トイレの水が流れるのがおそろしかった。勢いよく流れる水に、じぶんも一緒に流されてしまう、という想像にとりつかれていて、トイレを流すときは、手を先にあらって、トイレの扉をあけて、腕をいっぱいに伸ばして、レバーを回して、ダッシュで逃げるということをやっていた。小学生といえでも、じぶんが流されるなんてありえないと重々承知しているのであって、阿呆らしい阿呆らしいと内心でおもいながらもおそろしいのでしょうがなかった記憶がある。あれは、なんだったんだろう。