まみ めも

つむじまがりといわれます

乙女の密告

文藝春秋 2010年 09月号 [雑誌]
赤染晶子
義父は、もと大学で教鞭を取っておられた方で、世の中の人はみんな自分の生徒だと思っているようなきらいがある。はじめて義父に会ったのはもう二年も前、鎌倉の喫茶店ではじめて義母に会って挨拶をし、結婚しようかと思うという話をしたのだったが、あんまりいきなりの報告に過ぎたので、義母は驚いて顔から汗を噴出していた。その義母が、この際おとうさんに挨拶しちゃおう!と言い出して、わたしはずるずるのワンピースにビーサンという出で立ちだったものでうろたえたけれども、タクシーに乗って山の上のこの家にやってきたのだった。義父は、ロッキングソファに腰掛けて、わたしをじろりと眺めやり、経歴やら両親の職業やら、はては宗教まで問われたので驚いた。浄土真宗だとおもいます…と所在無げに答えたのを思い出す。まったく、面接を受けている気分だった。今、この家で、週の半分ほどを家で留守番しておるものだから、わたしが暇をしていると考えたものだろう、夕食のときに、食卓にぽんと文藝春秋を投げ出して、「ハイ文藝春秋芥川賞」と渡されたのは、教授から論文読んどいてといわれたような調子だったけれども、そういうわけで読むことになった。
「乙女たちはじっとうつむいてる」という書き出しで、実は、ウッとけつまづいたのだが、それというのは、「うつむいてる」というのがどうも気に入らないからで、「うつむいている」と書いてほしい。日本語が間違っているとかそういう問題ではなくて、内田百輭の言葉を借りると、嫌だから嫌だということになる。ただ、読むうちに、これは漫画を読むような小説だと思ったので、こういう言葉遣いもわざとなのかもしれない。軽い部分と重い部分とが入り混じって、軽い部分はちょっと鼻につく軽さだと思ったけれども、鼻につくとはいいながらところどころ笑ってしまうので、こっちの負け。するすると読み終わった。
つねづね、相手を呼ぶということが究極の愛の表現ではないかと考えていて、名前でも愛称でも、チョットあんた、でも、なんでもいいと思うけれども、愛する人を呼ぶというのは、とても素敵な経験で、わが子の名前なんて、自分でつけた名前のくせに妙にうれしくなって何べんだって呼んでしまう。愛する人に呼ばれるというのも、やっぱり素敵な体験で、マミチャンと呼ばれるのがとてもうれしい。一生、マミチャンでいたい。相手の名前を呼ぶというのの対極に、みずから名乗るというのがある。ちいさいときは苦手だった自分の名前が、だんだんに気に入るようになって、そのうち、わたしという人間が「真見」という自分の名前のかたちにぴったり嵌るような、そういう感覚すらする。いまや押しも押されもせぬ「真見」になっちゃった。名のように育ったということかもしれない。いまのわたしから真見という名前をはがしたら、わたしはきっと宙ぶらりんになって、じぶんが誰なのだかわからなくなってしまう。
乙女の密告」では名前がひとつのキーワードになっている。