まみ めも

つむじまがりといわれます

ことばの探偵(ちくま文学の森)

ことばの探偵 (ちくま文学の森)
狂詩巡査行(サッカレ)/がまの油口上(永井兵助)/家族混線曲(中田ダイマル中田ラケット)/一ト目上り(春風亭柳橋)/千早振る(三遊亭小円朝)/エステル(フィッシュ兄弟)/うわさ/ブダペスト風説便覧(モルナール)/南北戦争式電話番号記憶法(サーバー)/三人の黙示録の騎士(チェスタトン)/七(花田清輝)/二銭銅貨江戸川乱歩)/文字禍(中島敦)/予の自伝(堺利彦)/山下の話はまんざいみたいだ(山下清)/ベースボール(正岡子規)/佐々木味津三の「旗本退屈男」(三田村鳶魚)/比較言語学における統計的研究法の可能性について(寺田寅彦)/シとチ/ン(幸田露伴)/カタカナ随筆抄(伊丹万作)/便宜と実例(中野重治)/日本語と酒と(臼井吉見)/指揮者カリナの話(チャペック)/三文作家(アイリッシュ)/薮の中(芥川龍之介)/刎頚の交はり(バルザック)/東は東(岩田豊雄
「七」を読んでいるうちに世の中は2010年から2011年になり、「三文作家」を読んでいるうちにわたしは30歳から31歳になった。日付が変わった瞬間は茶を飲んでおり、筈氏からお誕生日だねといわれたものだから、なんの気の迷いか、フト、31歳は素直になってみようかなあと口をついて出た。口から出たことばを耳で聞き脳で認識しながらなんだか自分でもうろたえるし、対する筈氏も要領を得ない顔をしているものだから、筈氏に、マミチャン素直になればいいのになあっておもう?とたずねてみた。ウンと答える。でも、ひょっとして、マミチャン素直になればいいのになあって、ずっと思っていたいんじゃないのと(やや高圧的に)訊いてみたら、そうかもしれないと、狐につままれたような顔ではあったがそう答えたものだから、なんだかお互いにほっとしたのだった。それじゃあ、マミチャン素直になればいいのになあって思い続けさせてあげなくもないよ、と、そんなわけで、素直になるのはやめにした。わたしだって素直になりたくないこともないが、自分で打ち込んだこの文章を眺めるだけでも無理があることが知れるというもの。
「ことばの探偵」は技巧を凝らした文章がこれでもかとテンコ盛りで、サッカレバルザックなんかは訳者の工夫も伝わって、おもしろかった。スピンは「藪の中」に戻す。殺人事件をめぐる当事者の証言がちっとも一致しないで真相はまさしく藪の中という話なんだけれども、みんながみんな自分にとっての真実を話しているのかもしれず、ひとつの出来事をめぐる個々の認識がかみ合わないというのは往々にしてあることだと思われ、つまり、真相がわからないというのがひとつのたしかな真相で、ハー人間の認識って危ういなあとおもってしまう。真実ってなんなんだろうか。かつて、正気と狂気の間に線を引くというのは、人間にできることなんだろうか、精神で精神を裁くなんてこと、果たしてできるんだろうかと思ったことがあって、精神科医の友人に聞いてみたことがある。彼の返事としては、社会生活が営めるかどうかが問題になるのであって、社会生活に支障をきたすのであれば病ということになる、そういうものだった。つまり、正気か狂気かというのとは別のところにものさしがあるらしい。いつぞやの夕刊に、わたしには妖怪がウヨウヨ見える、それを周りの人に話しても誰も信じてくれないと訴えていて女子高生の話があったけれども、彼女が社会と折り合いをつけてやっていけるならば、まったく健康なんだなあ。たしかにオーラが見える誰かさんだって、人の背後をウットリした目で見つめてなんやかんや言ってたけれど、あれだって病気だったら公共の電波にはのせられんのだろう。なんだって、見えないからいないというもんでもないだろうし、見えるからいるというもんでもないだろう、でも、妖怪だったら百目が好きだなあ。