まみ めも

つむじまがりといわれます

とっておきの話(ちくま文学の森)

とっておきの話 (ちくま文学の森)
ミラボー橋(アポリネール)/立礼(豊島与志雄)/名人伝中島敦)/幻談(幸田露伴)/Kの昇天(梶井基次郎)/月の距離(カルヴィーノ)/山彦(マーク・トウェイン)/アラビア人占星術師のはなし(W.アーヴィング)/山ン本五郎左衛門只今退散仕る(稲垣足穂)/榎物語(永井荷風)/ひょっとこ(芥川龍之介)/わたし舟(斎藤緑雨)/にごりえ樋口一葉)/わら椅子直しの女(モーパッサン)/ある女の日記(小泉八雲)/イグアノドンの唄(中谷宇吉郎)/村芝居(魯迅)/羽鳥千尋森鴎外)/赤西蛎太(志賀直哉)/唐薯武士(海音寺潮五郎)/鶴(長谷川四郎
とっておきの話というだけあってつはもの揃い。しかし、つはものを制したのは安野光雅氏の「『空想犯』の顛末と弁明」というあとがきなのだった。これは、安野氏が洒落で刑務所からの年賀状を出したところのエピソードなのだが、ほのぼのとしていい。検閲の判をおかあさんが押したっていうくだりなんてほほ笑ましくてキュンとする。イイ大人がこういうことをやるっていうのが、いかにも洒脱でいい。
わたしのとっておきの話というか、とっておきの毛の話なのだけれど、わたしの右腿の裏には、ちょっと薄い色の黒子があって、中心が少し濃い色になって、そこからモヤシのひげ根のようにひょろっと毛が伸びている。ふだんはそんな毛のことなんか一向に忘れておるのだけれども、ふとしたときに件の毛を再発見すると、引っこ抜いてしまいたいような、大切に愛でておきたいような、眺めていると妙ちくりんな気持ちになる。毎度愛でておきたい気持ちが勝つので抜いたことは一度しかない。その一度というのが出産の際なので、その日の朝、出血があったものだから、すわ生まれるぞと意気込んで風呂に入った。湯舟につかりながら、この毛に思い至り、場所が場所なだけに分娩台にのったときに助産師さんの見るところとなるだろうとはたと気づいた。見られることには一切頓着しないのだけれども、黒子から毛が生えておったら、わたしならば気をとられてチラチラ見てしまう、そのチラと気のそれた拍子になにか起こって一大事となっては困る、わたしは心配性なのだ、出産なんて命がけの大仕事というし心配の種はひとつでも少ないにこしたことはない、だから、湯舟で、エイャ、ぷちっと抜いた。不思議なもので、ほかの毛に比べて肌に対して執着があるというのか、ぴいんと引き攣れるような感覚があってから、抜けた。思いのほか長かったので、しげしげと眺めて、捨て置いた。毛を抜いたおかげだかどうだか、安産だった。われながら機転が利いたものだとおもう。それから半年がたち、毛はふたたびひょろひょろと黒子から伸びている。わが子もスクスク育つ。わが子がある程度ものごとをわかるようになったら、この黒子の毛を見せて、これは君の出生とときと同じくして生えてきた毛なのだと説明してやりたい。それまで大事に生やしておく。あるいはふたり目なんてことがあったら、そのときもやっぱり抜いて、その毛をスクラップしておこうか。こんな話をしたら、思春期なんぞになったら苦い顔やしょっぱい顔などするんだろう。赤ン坊のうちは甘みを感じる味蕾しか機能していないのだと保健師さんがいっておった、その赤ン坊が苦い味もしょっぱい味もわかるようになったんだなアなんてしみじみ一杯やりたいと思う。