まみ めも

つむじまがりといわれます

爆発道祖神

爆発道祖神
町田康が、自身で撮った写真にあわせて創作ともエッセイともつかぬ文章を綴っている一冊。これもブックオフ¥105。町田康はどうしたって図抜けておもしろい。ドーナツショップでイヤフォンからはロケンロールを聴きながら読んでみたが、なんべんも噴き出しそうになって、噴き出すのを寸止めすると、笑いは長い息と化して両の鼻の穴からフスーとぬけた。じぶんではイヤフォンしていたからよくわからなかったが、思いのほか深い息をしたらしく、ひとつおいた向こうのテーブルの主婦三名の会話がピタリと一瞬間とまったのを気配でかんじてしまった。それでもおもしろくてひたすらに読みふけり、そのあともなんどかフスーとやった。
わたしは、よくつまづくたちで、それも、うっすらとした段差に弱い。石畳の路地などあるこうものなら、目地の部分、つまり、凹の部分につまづいてしまう。すると、わたしの歩きかたというのは地面をえぐって歩いているようなスタイルになるんだろうかと気になるが、それは、うっちゃっておくとして、そうやってやたらつまづくのは、わたしは、じぶんの肉体の輪郭がちゃんと捉えられておらずあやふやにぼやけているせいなんではないかとおもっている。体性感覚というやつ?わたしのホムンクルスはきちっと定められてないんでないか。その感覚と似たような位置づけで言語感覚というのがあるとしたら、町田康の言語感覚は、肉体にすごくぴったりはまっているようにおもう。だれのことばでもなく、町田康のからだがそのままことばになって発散されているような。こういうのを操れるのは、もう、天賦の才能というやつだとおもう。どうしたってことばはそもそも模倣から習得するものであるし、模倣のないことばなんてありえないはずだけれど、町田康のことばはやっぱりあたらしくて、なにからも自由、ぴかぴかに光っている。すんげーうらやましくって憧れる。でも、一方で、貧相な言語センスしかもたないわたしにはそれはどだい無理なことであるので、できるだけ平坦なことばで日常を記述していこうとおもう。