まみ めも

つむじまがりといわれます

老人と海

老人と海 (1966年) (新潮文庫)
食卓の傍の本棚は、五段になっていて、一番上は筈氏の所有の写真集やら重ねて、そのしたはやっぱり筈氏のものであるところの文庫が並んでいる。統一感のない本棚で、カフカもあるし星新一もあるし大江健三郎水木しげるもある。なかには懐かしい日本語みたいな本が混じっており、どうやら義父から拝借したものらしいが、ぺらっとひらくと「ホの字」なんて単語がでてきておもしろい。いつか読もうと思いながら、そのままにしていた本棚だったが、ようやく手を付けた。読み終わるのはいつになるだろう。家にある本を全部読み終えるなんてこと、あるのかな。読み終えたいとも思うけれど、未知の部分のある本棚もわるくない。つまり、どっちでもいいという話。てはじめはヘミングウェイにした。老人と海新潮文庫の、ヘミングウェイの髭面のイラストレーターが表紙のもの。いまは表紙がちがってしまっている。読んだことはなかったけれど、表紙はよくみていたのでなんだか懐かしい気持ちで手にとった。ヘミングウェイは二つの心臓の大きな川を読んで好きになった。夏休みになって少し閑散とした通勤電車で読む。中高生だった夏休みには、畳に寝そべって、本を読んだり、うとうとねむって、汗をだらだらかきながら目が覚めて、していたなあ。あのころは夏が無限に続くような気がしていた。いまは暑さが本格的になると、そこにもう夏の終わりの匂いをかんじてしまう。八月の頭には、もう夏の終わりがはじまっている。そのうち春がきたら夏の終わりを感じるようになったりしてね。
それで、ヘミングウェイはやっぱりよかった。完膚なきまでにスポイルされたサンチャゴに残されたもの、新聞紙をひいた簡素なベッド、ホットコーヒー、そして「あの子」、あとはなにがあったっけ。なんでもないようなホットコーヒーを極上の飲み物にしてしまうのがヘミングウェイ。なにかの空き缶に入ったような単なるコーヒー、わたしの眼前にあると大差ないはずのコーヒーが、どうしたってものすごくうまそう。だけど、この極上の一杯のためには、自分がぎりぎりまでそぎ落とされるような経験をしないといけないので、わたしだって極上コーヒーを飲みたいには飲みたいが、根が怠け者にできている自分としてはちょっとそこまではやられたいと思えないのであって、ほどほどの極上具合で満足しようとおもう。
きょうから五日間の夏休み。鎌倉でのんびりしよう。なにか一冊、夏休みに相応しいのを選ばないと。