まみ めも

つむじまがりといわれます

問題があります

問題があります
一歳になるまではいはいもしなかった息子であるが、ようやく歩き始めたので靴を買った。ちかくのイオンにいって480円の靴をふたつみっつ、ならべて、どれにするか訊くと、ベロの部分にくまの顔が縫いとられているのを指さした。試着したのがよほどうれしかったと見えてレジに持っていくのに脱がすと涙をながしていやがった。タグをその場でちょんと切ってもらいまた履かしてやったら涙で濡れた目もとのまま機嫌をよくして脚をバギーのうえに持ちあげたりばたばたさしている。家に帰ってから手を引いて庭にでたらずんずんと歩き、落ち葉をいちいち立ち止って拾い上げてみたり、わたしが引き抜いた雑草の根についた土をばらばら触って口にいれてみたり、めだかのいる水甕に手を入れようとしたり、尻もちをつくのもたのしいらしく嬌声をあげている。世界がうまれたばかりのようなきもちが、わたしにもうつってきて、一緒になって土くれをいじって遊んだ。また春になったら野菜の種を買って庭に蒔こうという気になった。今年の夏はしそにバジルにミントにきゅうり、ずんずん育ち、一日忘れただけでお化けみたいなきゅうりが育つので毎日驚いたっけ。あれをまたやろう。毎年おなじことを繰り返して、毎年はじめてみたいにびっくりすればいい。
佐野洋子という人を実はよく知らないで、ベストエッセイ集で読んだのがはじめてだったとおもうが、たしか幸田文森茉莉もファザーコムプレックスだというようなことをむき出しの言葉でかきたてるのにちっとも嫌味がなくておもしろかった。こないだブックオフでいつもの¥105単行本の書架に佐野洋子のエッセイが三冊ほどでていて、重たいのは難儀なので一冊だけ抜き取って買った。読んでみたらとりとめなくあちこちランダムにスキップするような気ままな文章で、人生に用はないとか、無趣味であるとか、読んだ本をそばから忘れていくとか、くらくらするぐらいシンクロするところがあって、ひとり照れた。そしてやっぱり読んだそばから忘れていく。が、覚えてたって役なしのことであるし、苦にはならない。とはいえふしぎと忘れてしまったという事実はたいがい忘れないもので、忘れものの多さにちょっとだけ切なくなることはある。