こないだは定期の通院があったので有給休暇を一日。朝はドーナツにミルクティ、それから映画、ブックオフを流して病院のいつものコース。ひとりの休みで悩ましいのは、ひとり外で食事をとるのがきらいなことで、いつも昼めしのためにいったん家に帰ったりする。この日は駅前のコンビニエンスストアで買ったパンとおにぎりを、そこらのマンション脇のベンチを見つけて腰掛け、がさごそ包装を剥いて野菜ジュースで流し込んだ。ひとりが好きなくせにひとりで飯やにもはいれないというのはどういうわけなんだろうとおもうが仕方ない。病院では里帰り出産する旨をつげ、お医者と看護師に励まされて診察室をあとにした。出産はもちろん大変だったが、あれは一種のファンタジーでわたしとしては産後の甲状腺ホルモンシャワーのほうが恐怖だったりする。
映画は午前十時の映画祭のリカバリー上映の最終週で、シベールの日曜日。飛行機事故のトラウマで記憶をうしない少女に執着するようになった男と、親に見捨てられた少女とのたはむれのような恋物語で、世界から切り取られてしまったふたりのおもちゃのようなピュアすぎる恋もように、これはトラジェディになるしかないと予感させられたが、やっぱりそのとおりの結末になった。破綻する以外のストーリーがみえないほど危うい恋愛だった。その脆さがうつくしい。女の子が、教会のてっぺんの風見鶏をくれたら本当の名前をおしえてあげる、っていうくだりなんか、ぐっときた。どんな愛のことばより、本当のじぶんだけの名前で呼んでほしいっていうのは、わかる気がする。それがどんなにありふれた名前でも、やっぱり名前は自分だけのものなんだよなあ。名前を呼ばれることで、ふわふわとつかみどころのない自分自身をたしかめたいのかもしれない。それにしても少女の成熟っぷりにはどきどきした。わたしが12歳のときというのは、男子に消しゴムにまんこと書かれて、その意味を知らなかったのでなんやそれといったら、おおきな声でまんこつったらおしえてやるといわれて、教室でまんこと叫んだ、そんなエピソードしかない。