まみ めも

つむじまがりといわれます

文章読本

文章読本 (中公文庫)風が強い。石川にしばらくいたことのある知り合いが、石川では一日のうちにすべての天気が見られるといったそうだが、たしかに昨日は昼前に晴れていたのがだんだんに曇り、雪雷が鳴り出して風がびゅうびゅう、そのうち雨に霙が混じりだし、最後は雪がちらついていた。ストーヴに次々と薪をつっこんで部屋をあたためる。ストーヴの窓から火が見えるのはちょっといい。ときどき火が消えていないか確認しながら本をぺらぺらやる。どうせ運転もできないで外には出られないし、石川の冬もたいして悪くないと思う。

文章はさまざまの進歩をし、変化をし、それぞれの個性にしあがって最上のものが作られて行くので、この「文章読本」の目的も、ある一つの型の文体を最高のものとして、ドグマティックに文体の階級制度を作ろうというのではありません。私はなるたけ自分の好みや偏見を去って、あらゆる様式の文章の面白さを認め、あらゆる様式の文章の美しさに敏感でありたいと思います。

と背表紙に抜粋されてあるとおり、古今東西の名文が散りばめられ、その多様な美をミシマの視点を借りて鑑賞するのがいかにも贅沢な体験だった。オーガイとキョーカの文章がならんでいるところなんか、お互いのうつくしさの対照具合がいっそう際立っていてため息が出てしまう。それは、三島由紀夫が感動しているからこそ伝わってくるので、やっぱりこういうのはセンスのよろしい感動体質の人に導いてもらうのが一番心地がよい。わたしはなんにしても感動の振幅がちいさく、どうしてもシニカルな視点を捨てきれないところがあるんだけれども、純粋に感動している人をみるのはそれだけで十分におもしろい体験で、たとえば筈氏とサッカーを見たりしていると、ここのトラップが凄いだのなんだのといってビデオをなんべんも再生して確認して見せてくれたりするが、わたしにはわかるようなわからぬようなすごさなんだけれども、その相手のまっすぐした感動がこちらを共振的に揺らすというのか、そんな風に感動できるんだなあ、とチョット別のところで感心してしまう。高校のときの数学の先生は、解が終わったあとに「感動したか?感動したやろ?」と念を押してきたのを、思い出した。あの先生は、WBCで控えだったにもかかわらず「全ての試合に出ていましたから」と言い放った川崎とおなじ目をしていた。実生活でそばにいたら相当あつくるしいことには違いないが、こういうタイプはにくめないので困る。