まみ めも

つむじまがりといわれます

ワーニャおじさん

ワーニャおじさん (岩波文庫)岩波文庫、小野理子訳のチェーホフブックオフオンラインで百円。みじかいプロットなので午前中で読み終わってしまった。

静かな田舎屋敷に、退職した教授夫妻がもどってきた。尊大で身勝手な教授と無為に日を送る美貌の妻は、人びとの暮らしに波紋を呼びおこすー苦悩と絶望にとらえられながらも、ひたすら生きて行くことを決意する主人公たちの姿は、時代の閉塞状況に悩む人びとの心に強く訴えかけ、初演以来観客を魅了しつづけてきた。

表紙のあらすじを一見するに前向きな話なのかと思いきや、読み終えたら妙にシニカル気分が到来した。ウィキペディアにはワーニャおじさんには絶望から忍耐へ、忍耐から希望へというモティーフがあらわれていると書いてあったが、希望がどこにあるのかわからずじまい。ソーニャ(顔がまずく気のまわしかたも下手、惚れた男を継母にもってかれてしまう)が最後にはなつせりふの切ないことったらない。

ね、ワーニャおじさん、生きて行きましょう。長いながい日々の連なりを、果てしない夜ごと夜ごとを、あたしたちは生きのび、運命が与える試練に耐えて、今も、年老いてからも、休むことなく他の人たちのために働き続けましょう。そして寿命が尽きたら、おとなしく死んで、あの世に行き、「私たちは苦しみました、泣きました、ほんとにつろうございました」と申しあげましょう。神様はあわれんでくださるわ。そしてね、大好きなおじさん、あたしたちはきっと、明るい、素敵な、美しい生活を見ることが出来るでしょう。喜んで、今の不幸を、ああ、よくやったと微笑をもって思い返して…、そしてゆっくり休めるでしょうよ。あたし、そう信じてるの。心から、燃えるように、信じてるの…。

あの世にいってからでないと肯定できないような人生を生きようとしているこのラストシーンを、チェーホフは希望的ではなく冷笑的な場面のつもりで描いたんではないかとおもう。チェーホフをそんなに読んだわけではないが「ねむい」の顛末をみるにつけそれほどわかりやすいことを書くひとにも思えない。果たしてあの世のご褒美のために忍耐できるというのがわたしにはちっとも理解できない。この世で報われてなんぼだとおもう。他人のために忍耐するというのをみずから選択するならつべこべ言わんでほしい。あの世で神様に訴えるってのが発想としてしょぼすぎる。ちっとも共感はしないが、登場人物はことごとくだめっぷりを遺憾なく発揮してくれているので、舞台でみたらいきいきとしておもしろいのかもしれない。