まみ めも

つむじまがりといわれます

読書の階段

朝夕は陽射しがずいぶんと傾き、影が多くなって、風も吹く。暑さもやり過ごしやすくなった。夏が終わると予感するのは好きだけれど、本当に夏のしっぽが見えてくると日の短さが惜しくなるのだから、勝手だな。夕方、天気がゆるすときには、セイちゃんを保育園に迎えにでたあと公園まで足をのばし、日陰に陣取ってひと遊びする。セイちゃんはシャボン玉が大好きで、かーちゃんも、といって、ふたりしてぷーぷーシャボンの液がすっかりなくなってしまうまで吹きまくる。毎日やっていると段々とシャボン玉のこともわかってくるもので、すこし風があると次々と玉がうまれてたくさんとぶ。風がないときにはいくら吹いてもストローの先から離れてくれないので、大きな玉ができる。おなじように吹いているはずなのに、大きな玉を膨らしているときはなんだか息苦しくなるのがよくわからない。セイちゃんに、うたって、とたのまれてシャボン玉の歌をうたいながら、ぼんやりと玉を眺めていると、虹色がきらきらするなかに上下にふたつ景色が映じて、だんだんと辺縁からあやしく儚くなって、消える消えると思ううちに、こらえきれずにぱちんと弾けてなくなるのが、いかにもおもしろい。向かいのベンチで我を忘れて啄みあっている高校生のカップルも、シャドーボクシングというのか、ボクシングの試合を、観客の声援にこたえるところから律儀にひとりで全部やってのける男のひとも、この玉のなかに本当におるんかなと探してみるが、見つける前に全部ぱちんとなる。

読書の階段

読書の階段

夏休みに鎌倉でしばらく過ごしたときに、義父の本棚から何冊か借りてきたうちの一冊。本のあいだからヒラリと紙切れが落ちて、この本の新聞記事の切り抜きなのだった。でもって、読み始めると、読んだ本をチェックしたのか、頁にところどころマーキングがあり、いかにも几帳面な義父のやりそうなことだとわらってしまう。ラブシーンの言葉の荒川洋治さんによる書評集。オコナーもばななもチャペックも俵万智も。書評といっても、このひとはなんでもたのしんでしまえる才能の持主で、さらに詩人なので、とりとめなく感じる部分もありつつ、読ませてくれる。たとえば尾崎翠はこんな具合。

いま文章は、ある人間になるために、あるいは何かを見るために何かを手にするために書かれ、また読まれる。でも実は何もしない文章というものがいちばん多くのことを感じさせ、想像の翼を与えてくれるのだというふうには思わなくなっている。尾崎翠は、それとはちがう、奇妙なほどに純粋な、文章の立場を、さきがけて示した。また苦しみながらもそんな自分だけの世界の、さらにその先を開いていこうとした人でもあるのだ。

何もしない文章。そんなことできるんかな。おかげで読みたい本が増えちゃった。ここにのってる本を読んだあとに読み返したら、もっとおもしろいかもしれない。