まみ めも

つむじまがりといわれます

それでもボクはやってない

連休は結婚式にでた。一年ぶりか、化粧をやったら、鏡にうつる自分の顔をみるたび妙な気分がした。

今余が辛抱して向き合うべく余儀なくされている鏡はたしかに最前から余を侮辱している。

これは草枕の主人公が髪結床で歪んだ鏡に相対したときの心境だが、わたしにとってみれば、歪みの如何はさておきこの世のありとあらゆる鏡がわたしを侮辱しとるようなもんだ。水道管やスプーンの曲面に映る歪んだ自分のほうがよほど好ましい。ひょっとすると自己評価が高くて、鏡にうつる原寸大の自分に耐えられないのかもしれない。身支度をしていたら、セイちゃんが化粧や指輪やストッキング、首輪にマニキュア、いろんなものを珍しがった。結婚式はといえば、花嫁の真っ赤な着物姿が秋のすっきりとした曇天に艶やかに映え、となりの花婿は小水を我慢しきれず披露宴を中座、酒樽から好き好きに酒を汲んで、そこらを方言が飛び交い、とてもよい式だった。花嫁のスピーチ、結婚のあいさつに相手がたの実家にはじめて訪れたときに、名前の書いた歯ぶらしが準備されていてうれしかった、というのが、ぐっときた。歳をとるごとに、等身大のエピソードに弱くなる。わたしも息子が女の子をつれてきたら、いそいそと歯ぶらしに名前をいれて用意しよう、願わくばそれをよろこんでくれる感性を持ち合わせた女の子を連れてきますように。
帰宅し、セイちゃんに式の写真をみせていたら、宿六がわたしの白無垢姿の写真をひっぱりだす。セイちゃんに、これはだれ?ときいたらシラナイという。これ、おかーちゃんだよ、というと、チガウよ、と返され、お化粧したおかーちゃんなんだよ、というと、目が泳ぎ、混乱をきたしたぼんやりした顔をした。わたしの結婚式では、花嫁姿を目にした家族は爆笑(似合う!といって笑うんだからよくわからない)、花嫁の感動的なスピーチの最中も、両親の目には一滴の涙もやどらなかった。わたしのようなじゃじゃ馬にはぴったりの結婚式だったとおもう。

テレビでやっとったのを録画。人が人を裁くことの限界。わたしは加瀬亮のようなぼんやりとした男の顔が好きとみえて、宿六のことも、はじめはなかなか顔が覚えられず、待ち合わせをするたびに、顔を頭の片隅に思い描こうとするが、やろうとするほど顔の部品がばらけてうまくまとまらず、今度こそ顔がわからなかったらどうしようと不安になるのが、恋のどきどきを助長していたのだと今になって思う。忘れられない男というのはよく聞くが、覚えられない男というケースも、世の中にはあるのだ。