まみ めも

つむじまがりといわれます

私はこうして読書をたのしんだ

都内をすり抜け、湾岸道路を走り、鎌倉にきた。高速道路の高架から、東京ドームが見えて、苦しいような懐かしさに襲われる。古いマンションの屋上で、スーパーの串かつとビールを飲みながら、東京ドームと東京タワーをいくらでも眺めたなあ。宿六が遊びに来たときに、インターホンのそばにとまっていた藪蚊を叩き潰したあとが残っていて、わたしはそれを敢えて拭わずにおいておいたのだが、いつのまにかきれいになっているらしい。もうあのマンションに行くこともないだろう。車酔いしたセイちゃんを眠らせつつ、フクちゃんに童謡をうたい、うっすらと車酔い、湾岸道路を走っているときに、ずいぶん遠くにきたもんだなあと実感した。あの頃の、先のみえない感じは、苦しかったけれど、胸をしめつけるときめきでもあり、あれが若さということなんだろう。

図書館本。池内紀が、読んだ本についていろいろ書き留めている。読みたい本のリストがまたのびた。この調子でいくと、とりあえず死ぬまで退屈することはなさそうだ。

人間は本来、一個の絶対であって、外界とつながる何ものもなく、また、つながる何ものも外界にない。このような人間のありようをなぐさめるのは、どこかへだたった所に、自分と同質の、自分のような孤独者がたしかにいるということだ。

そういえば、都会の屋上でアルコールと東京タワーに慰められていたころは、やたら活字に溺れていて、休みの日はちいさな風呂を何度もわかして、本ばっかり読んでいたけれど、あのときの気持ちは、こういうことだったのかなと思う。あんなにひとりぼっちだったことは、もうないかもしれない。
気にかかるのは、池内先生の女性論で、なんかよほど酷くあしらわれたのではないかと邪推してしまう。
「男は女にとって、雨の日に借りた傘のごときものなのだ。空模様が変われば、返すのをすっかり忘れている。」
「男の思い出など、女にとっては単なるアクセサリーにすぎず、男がいくらいい気になっても、女は男のほんの一部分しか覚えていないものなのだ。そして男の未練など、しょせんは女にとって紙屑のごときものであって、別れてからいくらかき口説いても、彼女は、屑籠に何を捨てたかなど、思い出しもしないのだ。」
でも、こういう根暗のところがあるから、わたしは池内紀が好きなんだろうと思う。そういえば、わたしも、鼻水をかんだあとのちり紙よろしく、くしゃくしゃぽいっと捨てられた身だったが、なにかの拍子で思い出したものか、拾い上げられて、どうにかこうにかやっているので、やっぱり男のほうは、屑籠になにを捨てたか、完全に忘れたりはしないのかもしれない。