まみ めも

つむじまがりといわれます

自然のレッスン

土曜に父が泊まりにきた。前日の夜遊びが過ぎたので、二日酔いになり、リポDを飲んでなんとか歯医者と買出しをすませて台所仕事をしていたが、油脂のにおいにだんだん二日酔いがぶり返し、夕方は布団で横になっていた。なま人参のサラダにトマトにレタス、揚げたいも、味噌汁、ねぎのチヂミ、もっと作る予定でいたが、むかむかするのと、おとうさんが焼鳥の串を二十本ほど、軟骨揚げもお土産にもってきてくれたので、もういいやという気になった。食後はこどもふたり対おとうさんで相撲がはじまり、こどもたちはふたりまとめて逆さに抱えあげられ、行き場のない興奮でセイちゃんはまともに離せなくなり、しまいには泣き出した。こどもを寝かしつけて階下におりたら宿六が日本酒にウォッカで仕上がっており、ゴムボールを食卓に蹴り上げ、ひとあばれしてから居間でのめるようにして寝た。面倒なのでありったけのひざ掛け毛布をかぶせて電気を消して二階にあがったが、夜明け前にぶつぶつ酔いのにおいとひとり言をまき散らしながら布団に倒れこんでいた。

自然のレッスン

自然のレッスン

曽我部恵一ツイッターで言及していたので図書館で予約。そういえば、昨日・今日・明日もりんごのカバーだ。昨日・今日・明日はしゃくったあとのりんご。アダムとイブが食べた禁断の実はりんごだと明言されているわけではないらしいが、柴田元幸がりんごを齧ったときの「取り返しのつかない感じ」が禁断の実にふさわしいと言ってたっけ。自然のレッスンは、北山耕平がほうぼうを旅するなかで得た教訓というか、自分を律するためのことばを書き留めたもので、たとえば、なんらかの価値判断をするときは「美しさ」があるかどうかを考えようとか、そういうものなのだが、娑婆の誘惑にことごとく打ちのめされている身としては縮むおもいだった。なんで本当におなかが空いてないのに食べるんだ、とかね。わたしのりんごはもう齧りまくって芯しか残っていない。