まみ めも

つむじまがりといわれます

本当はちがうんだ日記

三月のうちはうす手のいかにも化学繊維ですという毛布を一枚、そのうえに布団、さらに毛布をかけて、それでも冷えてしかたないのでセイちゃんの布団も半分わけてもらい、靴したもはいたままで寝ていたのが、いつのまにか毛布もいらんようになって、こどもたちは布団から逃れるような寝相をやって、かと思うとつめたい春の雨の金曜日。朝、すこし薄着で家をでたら、手足の先が冷えてなんだかしびれるような、ぎこちなさが妙に心地よく、すっかり暮らしにはなじんでいるが、駅ですれ違う新人さんたちのフレッシュさがうつってくる気分で、春のおきまりのロビンソンをiPhoneで流す。おなじ暮らしでも季節はあたらしい。葉桜になって、うかれた景色がおさまると少しほっとする。いつまでもなじまないでいたいような気になったりする。

本当はちがうんだ日記 (集英社文庫)

本当はちがうんだ日記 (集英社文庫)

ブックオフで105円。尊大な自意識が邪魔をしてなにものからも拒否されているような脅迫概念とやってきているような穂村弘の本。枡野浩一もそうだけれど、なんかネガティブな穴ぐらの中でぶつぶつやっているような暗さが、短歌になるとうまい具合にそぎ落とされるのかもしれない。

そんな自分にとっての自然な居場所と思えるところはどこだろう。思いつかない。強いて云えばそれは場所ではなく、散歩という行為のなかにあるような気がする。私は会社帰りに三時間も四時間もひとりで夜の散歩をする。わざと道に迷うように歩く。路地を曲がって、その先が「なんだかいい感じ」だとどきどきする。わざと道に迷うように歩く。あそここそ私の求めていた場所だ。だが、実際にそこに立っても何も起こらない。ちがう。ここじゃなかった、と思いながら、次々に路地の奥に入ってゆく。

世界に拒否されているように見せかけて、本当は自分が世界を拒否しているのかも。求めている場所はあっても、そこにたどりつくことは求めていないに違いない。