まみ めも

つむじまがりといわれます

ぼくたちのポケット

先週末の公園ではもうどんぐりが落ちていた。セイちゃんもフクちゃんも、夢中になって拾っている。セイちゃんはポケットをぱんぱんにして、本当にうれしそうにした。どんぐりの散らばるそばに、枝に赤い実が連なっているのを見つけて、殻の中から実をほじくってみたら白い糸のようなものが引っ張れてから取れた。しらべたら、コブシの実らしかった。春先にぽっぽっとひらくコブシの花は知っていたけれど、実のことは思えば一度も考えたことがなかった。実はもちろん、枝も葉っぱも知らないので、花が咲いていなければコブシの木かどうかもわからないのであって、心もとないもんだなと思う。町田康だったか、花のことも木のこともなんにも知らんと言っていて、なんとなくその潔さがうらやましかったが、そうかと思うと花や木や小鳥のことばっかり書いている庄野潤三みたいに暮らしてみたかったり、結局はどっちつかずで中途半端に名前を知っているにすぎない。でも、名前があってもなくても、花は季節に合わせてきちんきちんと咲くので、どうでもいいような気もする。

こないだのブックオフで108円。ポケットのなかのものを並べたような表紙がいい。ポケットの中身(ペンやマッチや夢など)についての詩のようなものと、ショートショートが収録。「男のポケット」というラジオの番組で、フリートークがわりにショートショートを読むということをやっていたらしい。ポケットの中身がクラインの壺みたいに変形して裏返って異次元にとんでってしまう。
洋服をえらぶときには、できるだけポケットがあってほしい。できればお金もiPhoneもハンカチも鍵も読みかけの本もポケットにつっこんで、両手を自由にしてぶらぶら歩きたい。なかなかそれを叶えてくれるポケットはなくて、コートのポケットならときどき文庫本までなら入れてくれるのがある。いっとき青色に狂っていたときに、真っ青なコートでポケットも大きいので、毎日文庫本を持ち歩いたっけ。新潮文庫スタンダールの恋愛論がはいる大きさだった。いろいろうまくいかない時期で、恋愛論でも読んだら少しはわかるのかなと思ったけれど、結局なにもわからないし、恋愛論を読んでいたら恋愛がどんどんだめになるような気がした。もう着なくなったコートだけれど、なかなか捨てられないでおいてある。ちょっと変な話だけれど、だめでだめでしょうがなかった自分を、どこまでも引きずっていきたい気がしている。