まみ めも

つむじまがりといわれます

ザ・マン盆栽

ザ・マン盆栽 (文春文庫PLUS)
ブックオフの文庫105円コーナーにマン盆栽の文字をみつけて思わず購う。わたしとマン盆栽との邂逅はと思い起こせばかれこれ七年まえなんだった。筈氏を大学の五月祭に誘い出し、ぶらぶら歩いていたら、ひと通りの少ない工学部のあたりにマン盆栽の出店があって、店先にマンボの立看板がでていた。この立看板は、よく旅先などにある、顔の輪郭をのこしてまるく穴があけられている類のもので、福福しい肉体が、両のてくびにふりふりと段フリルをつけて、マラカスをもって、マンボのポーズをきめていた。わたしが再三拒否したのにもかかわらず、筈氏は一生のおねがいといい出し、ついにわたしはマンボ看板に背伸びして顔をあてがった。かなりの渋面で写真を撮られたのだったが、それをやったが最後、彼のなかではいつのまにやらわたしはノリノリで看板に顔をあてがって、ウ〜〜〜ッ、マンボ!!!といったことになってしまっており、ことあるたびに、マミチャンはマンボだもんねくすくすと笑われたりし、それはそれは屈辱的であった。写真にうつったしかめ顔がわたしの心情を証明してくれるはずが、鳳凰とかいう怪しげなフィルムカメラだったものだから、露出があわなかったのか写真は一枚ものこらなかった。それで、いまでもわたしはノリノリマンボのままで、まあ、いまとなってはどうでもいい。
今週は一家そろって風邪をやってしまい難渋な五日間だった。息子が熱を出し保育園からよびだされ、保育士のかたに申し訳なく、急遽午後半休することになり会社にもうしろめたい。風邪でぐずぐずする息子が不憫であり、また同様に風邪をひいて咳をはなつ筈氏にやつあたりして猛烈に後悔、けっきょく鎌倉から義母にでてきてもらって昼間の息子をみてもらうこととなり、肩身のせまい思い。そんなわけで世の中のどちらを見ても申し訳がたたなくて、どっちに足を向けて寝たらよいのかわからないと悶々してみたが結局息子がぐずるので朝までたいして眠れなかった。そんな気持ちでマン盆栽をながめていたら、なんだか苔にえもいわれぬ癒しを感じてしまった。駅までの通勤路、遊歩道わきにはしっとりと天鵞絨のような苔がはりついていたりし、毛のようなものが陽に照らされて、黄緑のあかるいやわらかさがなんだかわらっているようにかわいらしい。よくよく考えると苔という存在の不思議がいや増しになり、苔のことを知りたくなっている自分に気づいた。そのうち陶器の鉢でも買ってきて、土を詰めて、へらでこそげた苔をおいて、あとはフルーツの種でも埋める。米の研ぎじるは週に一度。そして、しあげにフィギュアを配する。道路に落ちているようなださいフィギュアでマン盆栽を演出したい。そういえば駅のそばに雑草生い茂る中に統一性のないやたらファンシーなキャラクターやらがランダムに配置されたちょっと恐ろしげな庭があったのを思い出した。あれもマン盆栽みたいなもんだったのかもしれない。あの庭の様相は家主の心理状態を反映したにちがいないが、やたらこちらに緊張を強いておった。わたしのマン盆栽は脱力感あふるるものにしたい。